歴史と人類

君自身のこととして考えてごらん。君はケータイで友だちとメールのやり取りをする。出かけて行って話さなくても、わざわざ手紙を書かなくてすむのだから、確かにこれは便利なことだ。でも、もしも、そうやって便利になった道具によってやり取りされる言葉の内容が、相も変わらず内容のないおしゃべりや、聞き苦しい他人の悪口だったとしたら、何のための便利さだろう。道具は確かに進歩したけれども、道具を使う君の精神は、じつはちっとも進歩していないのじゃないだろうか。いや、それどころか、便利な道具のおかげで、言葉という精神の価値がいよいよわからなくなっているのだとしたら、これは進歩どころか堕落じゃないだろうか。
洋服やごちそうだって同じことだ。おしゃれをしたり、おいしいものを食べたりするのは、むろん生活の大きな楽しみだ。でも、その楽しみを追うこと自体が生活の目的となって、何のための生活なのかを考えることをしないのならば、置き去りにされた精神は、貧しくなるばかりのはずだ。それなら、何のための豊かさだろう。精神が貧しくなる生活の豊かさが、どうして人類の進歩であるはずがあるだろう。

引用:池田晶子「14歳からの哲学」


厳しく聞こえる指摘かもしれないが、その通りだと思う。

便利な道具のおかげで、言葉という精神の価値がいよいよわからなくなっているのだとした

全く、SNS全盛時代において言葉の価値はかえりみられなくなっている

内容のない品性を落とすような言葉がいとも簡単に発せられる世の中になってしまった。

精神が堕落していては、元も子もない。

道具の進歩は道具の進歩にすぎなくて、道具が進歩すればするほど、それを使う者の精神が問われてゆくような気がする。

精神が置き去りにされていては豊かであるとは言えまい。

見える物と見えない精神。

見えない精神が豊かであるということと見える物の進歩との関係。

物や道具の進歩の陰で、精神はこれにいかに対応してゆくべきであろうか。

~つづく~