宇宙と科学
なんだか大変なことになってきた。ここまで、目の前に花があることの確実さを疑うことから始まって、肉体や脳、全宇宙があることの確実さをも疑うことができるというところまで、考えを辿ってきた。普通、科学はここまで考えることをしない。科学は、物質が「ある」、物質が物質として「ある」ということを疑わない前提として成立しているものだから、それを疑い始めたら、科学は成立しなくなってしまうからだ。でも、自然の不思議、宇宙の謎を本当に知りたいと願うのだったら、そもそもその物質が「ある」とはどういうことなのかということを、疑わざるを得なくなるはずだ。でも、疑うからといって、物質など「ない」というのでもない。ないものはそもそもないのだから、やっぱりそれは「ある」ものだ。あるのだけれども、科学がそう思っている仕方で、自分の外に、「客観的に」あるのでは決してない。だって、ビッグバンには外がなく、全宇宙がこの瞬間に自分であるとするなら、どうして物質が客観的な存在であり得るだろう。客観的ということはないのだから、主観的ということもない。宇宙であるところの自分は主観的な存在なのではない。主観と客観という分け方は、物質は物質であると疑わず、自分は自分であると疑わない場合の、とりあえずの便宜にすぎないということを覚えておこう。(略)物質としての宇宙しか扱わない科学には、物質ではない精神としての宇宙についてこの問いに、答えることはできないんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
圧巻!
池田さんは、どうしてこのような道筋で考え進めることができるのだろうか!と
ほんとうに敬服する。
「宇宙であるところの自分」
「精神としての宇宙」
壮大な眺めである。
日頃の些細な事柄が、ほんとうにちっぽけなものに思えてくる。
科学は物質としての宇宙しか扱わないのか。
日頃私たちが考えてる宇宙というのも、物質としての宇宙についてだ。
「精神としての宇宙」とは…
考え始めると、果てしなく、目が廻りそうだ。
主観的、客観的とはよく用いられる言葉にだが、主観、客観の分け方とは
物質は物質であると疑わず、自分は自分であると疑わない場合の、とりあえずの便宜にすぎない
そうなのか。ある条件下でのことなのか…
前提を疑うということせず、そう言われているからそうなんだと思いこんでいることがまだまだたくさんあるはずだ。
考えるって、ほんとうに面白いことだ。
~つづく~