宇宙と科学

目の前に花がある確実さというのは、それが物質としてあることの確実さだ。見える、触れる、香りがするというのは、五感、肉体の知覚によって知る確実さなんだ。でも、物質は、時間とともに必ず変化して、なくなるものだ。花が枯れてなくなるように、君の肉体も、病んで老いて必ず死ぬ。
これに対して、精神が知る確実さがある。前に「死」の章で、「自分がある」、精神としての自分があるということの確実さに気がついたね。花や肉体は、時間とともに変化してなくなる。だから、物質があることの確実さは、実は不確実なことなんだ。でも、それを不確実であると考えている自分がある。こちらは絶対確実だ。肉体が病んで老いて変わっても、こちらは少しも変わらない。
物質は変わるけれども、精神は変わらないのだから、物質と精神とは、同じ「ある」でも、違うあり方をしているということになる。どう違うのだろうか。


引用:池田晶子「14歳からの哲学」


なるほど、そう言われればそうだ。

今考えている自分があるということは確実だ。

物質とは違うあり方をしている精神。

物質と精神。

見えるものと見えないもの。

触れるものと触れないもの。

普段の生活では、目に見えるものばかりに意識がいきがちだが、吸ってる空気は見えないのにその存在を疑う人がいないのも不思議なことだ。

物質的に豊かになってもどこか満たされないおもいがある…

という時は、精神的に豊かさを感じられてないということだろう。

物質的豊かは目に見えるけれど、精神的な豊かは目に見えない。

人は、精神的豊かを感じられないと、真に満たされることはないのではないだろうか。

ということは、本質は見えないところにあるということではないだろうか。


~つづく~