メディアと書物
考えてごらん。電話もテレビもなかった百年前も、何もなくて自然とともにあった五千年前も、そして、ネットだグローバルだの現代世界も、人が生まれて、生きて、そして死ぬという事実については、まったく同じなんだ。何ひとつ変わっていないんだ。生まれて死ぬ限り、必ず人は問うはずだ、「何のために生きるのだろう」。数千年前から人類は、人生にとって最も大事なこの問いについて、考えてきた。考え抜いてきたんだ。賢い人々が考え抜いてきたその知識は、新聞にもネットにも書いてない。さあ、それはどこに書いてあると思う?
古典だ。古典という書物だ。いにしえの人々が書き記した言葉の中だ。何千年移り変わってきた時代を通して、まったく変わることなく残ってきたその言葉は、そのことだけで、人生にとって最も大事なことは決して変わるものではないということを告げている。それらの言葉は宝石のように輝く。言葉は、それ自体が、価値なんだ。だから、言葉を大事に生きることが、人生を大事に生きるということに他ならないんだ。
引用:池田晶子「14歳からの哲学」
「人が生まれて、生きて、死ぬ」
ずっとずっと続いてきたこと。
これこそ、変わらないこと。
何千年前から考え続けられてきたこと、言い伝えられてきたこと、それらが残っているということの意味は?
時代が変わってもなお残るそれらの言葉は、大事なものではないだろうか。
誰かが書き記した言葉が後世まで残る。
大事でない流行りのようなものは、淘汰されていくだろう。
だから残り続けていることはすごいのだ。
言葉は、それ自体が、価値なのだら。
あらゆるものが消費されてゆく社会において、残ってゆくのは、人に味わわれたものだけではないか。
どんな時代にも通用する、人が大事だとおもうもの以外は消えてゆく。
古典の価値を改めて考えてみたい。
~つづく~