「こころと身体の平和バトン 」
これは、広島市西区太光寺の副住職東和空さんの発案で天城流湯治法 杉本錬堂さんから始まったもので、バトンは次々と繋がり、
俺はこの度、兄のように慕っている大好きなTHE PRISONERのヴォーカリスト 潤一郎さんからこのバトンを託されました。1日目~3日目の計3編を書いていきます。
2日目「地獄の日々」
一般病棟の個室で呼吸困難に陥ったところで、俺の意識はプツリと途切れていました。
意識が戻った瞬間は覚えています。ふと目が覚め、ほぼ見えていない目で周囲の状況を確かめることも出来ず、ただ一つわかったこと。両手がベッドの柵に拘束されていました。人口呼吸器を挿管されているのでもしも暴れて抜くようなことがないようにということだったそうです。まぁ、そんなことしなくても手は全く動かなかったんですけど。
俺はパニックでした。自分が一体どこにいるのか、今が何月何日なのか、そして何よりも俺の身体はどうなってしまったのか。
そう、症状は悪化の一途を辿り、呼吸筋まで動かなくなり自発呼吸が不可能になった為に集中治療室に運び込まれていました。12月28日に意識を失い、自分自身で日時を確認出来た時には年が明けて一週間が経っていました。ここからは本当に地獄のような毎日でした。
人工呼吸器のチューブが口から肺まで通されているので話す事はもちろん出来ない上に用意された文字盤を指差す筋力もない。要求を伝えるには看護師さんが文字盤をあ行から順番に指してくれるのを目で合図して一文字ずつメモしてもらい理解してもらいました。人口呼吸器が挿管されているので痰がチューブに詰まるのを頻繁に吸引してもらうのですがこれが本当に辛く苦しいものでした。
そして治療の一つ、血漿交換の透析も始まりました。しかし俺の血液型はO型のRHマイナス。必要量が集まらずに終了を余儀なくされた時にうちの母親は主治医から覚悟はしておくようにと伝えられたのだそうです。
身体の自由は全くきかず、自らの足がどこにあるかもわからない。混濁した意識の中、毎日不安と恐怖に苛まれていました。時間の感覚もなく、常に幻覚に襲われる。死を意識する日々でした。
ある時、母親が面会に来てくれていた時に俺の動かない手や足を一生懸命さすりながら「頑張らなんよ。頑張らなんよ。」と繰り返すのがどうにも耐えれずに声にならない声で八つ当たりしてしまい追い返してしまいました。言われなくても頑張ってんだ、と。母親が帰った後に俺は後悔で涙しました。なんて馬鹿なことをしてしまったのか、と。しかし母は次の日も面会に来てくれました。文字盤でごめんと伝えました。よく見えなかったけど母は泣いていました。
ある時、幾分動く舌で口の中を探っていたらあるはずの口ピアスがないことに気づき必死で看護師さんに伝え、なんとか理解してもらい、そこからてんやわんやの大騒ぎ。何かの拍子でキャッチが外れ、飲んでました。結局特に異常もなく事無きを得ましたが。
いよいよ人口呼吸器を抜くという日。ベッドを医師や看護師の方が取り囲む中、俺の枕元の機器のアラームがけたたましく鳴り響きました。緊張して心拍数が上がり過ぎたんですね。恥ずかしくて真っ赤になる俺と爆笑する看護師さん達…。
呼吸器を抜いて最初の言葉は妻にかけると決めていました。夕方、面会に来てくれた妻にかすれた声で言いました。
「嫌いにならんでね」と。
顔の麻痺のせいで呂律も回ってなかったけど。その時の俺の精一杯の言葉はそれだったんです。
毎日、血中二酸化炭素量を測るために動脈からの採血をされました。検査を重ね、ようやく一般病棟の個室に戻れることに。
しかし、完全なる寝たきりには変わりはなく、栄養は鼻から胃に通されたチューブで液体を1日3回流し込まれていました。点滴を常にしているせいで腕の血管は細く硬くなり看護師さん泣かせな患者でした。
この時、体重は45Kgまで落ちていました。
個室に戻れたので母がうちの息子を連れてきてくれました。クリスマスも1歳の誕生日も一緒にいてあげれなかった息子と久々の再会。久々に会う息子はすっかり大きくなっていました。そこで母が俺の枕元に息子を座らせようとしてくれました。しかし、息子は俺の姿を見て泣いて嫌がるのです。身体中、管だらけで痩せ細った俺をパパだとわからなかったのでしょう。1人になった個室のベッドで咽び泣きました。自分が情けなくて情けなくて。病魔を心底恨み、自分を責めました。
ある日、主治医が病室に来て「ここまで進行した場合、後遺症は重い。もしかしたら回復したとしても車椅子までかもしれない。万一歩けるようになったとしても走る事は不可能でしょう。」と言いました。俺は主治医にまたバンドでドラムを叩きたいんですと伝えました。しかし「それはまず不可能です。職場復帰でさえも難しいかも。」という返答。目の前が真っ暗になりました。もうダメなのか、と。
その日の夜、面会時間終了間際に仕事を終えたSOUL CRAFTのボーカル、マサツグさんが会いに来てくれたんです。
その時マサツグさんは痩せ細った俺にびっくりしながらも「まぁ、今年の年末オールナイトでさ、1曲でもいいからさ、やりなよ。それを目標に頑張りゃいいじゃん」と言ってくれました。昼間に真っ暗になった目の前に一筋の光が射した気がしました。
俺が入院した年末に行われたオールナイトライブはSOUL CRAFTのドラム木村さんが急遽 曲を覚えてくれてヘルプで叩いてくれたおかげでBUILDはライブをやれたのです。
俺はこの時、また必ずスティックを握りステージに上がる事を誓いました。必ずSOUL CRAFT企画の年末オールナイトライブで復活する、と。
この病院に歩いてきてあの主治医に会うんだ、と。
そして何よりも息子をまたこの手で抱っこするんだ、と。
国立医療センターからリハビリ専門病院に転院の話が決まったのはその数日後のことでした。
最終回3日目に続く。
これは、広島市西区太光寺の副住職東和空さんの発案で天城流湯治法 杉本錬堂さんから始まったもので、バトンは次々と繋がり、
俺はこの度、兄のように慕っている大好きなTHE PRISONERのヴォーカリスト 潤一郎さんからこのバトンを託されました。1日目~3日目の計3編を書いていきます。
2日目「地獄の日々」
一般病棟の個室で呼吸困難に陥ったところで、俺の意識はプツリと途切れていました。
意識が戻った瞬間は覚えています。ふと目が覚め、ほぼ見えていない目で周囲の状況を確かめることも出来ず、ただ一つわかったこと。両手がベッドの柵に拘束されていました。人口呼吸器を挿管されているのでもしも暴れて抜くようなことがないようにということだったそうです。まぁ、そんなことしなくても手は全く動かなかったんですけど。
俺はパニックでした。自分が一体どこにいるのか、今が何月何日なのか、そして何よりも俺の身体はどうなってしまったのか。
そう、症状は悪化の一途を辿り、呼吸筋まで動かなくなり自発呼吸が不可能になった為に集中治療室に運び込まれていました。12月28日に意識を失い、自分自身で日時を確認出来た時には年が明けて一週間が経っていました。ここからは本当に地獄のような毎日でした。
人工呼吸器のチューブが口から肺まで通されているので話す事はもちろん出来ない上に用意された文字盤を指差す筋力もない。要求を伝えるには看護師さんが文字盤をあ行から順番に指してくれるのを目で合図して一文字ずつメモしてもらい理解してもらいました。人口呼吸器が挿管されているので痰がチューブに詰まるのを頻繁に吸引してもらうのですがこれが本当に辛く苦しいものでした。
そして治療の一つ、血漿交換の透析も始まりました。しかし俺の血液型はO型のRHマイナス。必要量が集まらずに終了を余儀なくされた時にうちの母親は主治医から覚悟はしておくようにと伝えられたのだそうです。
身体の自由は全くきかず、自らの足がどこにあるかもわからない。混濁した意識の中、毎日不安と恐怖に苛まれていました。時間の感覚もなく、常に幻覚に襲われる。死を意識する日々でした。
ある時、母親が面会に来てくれていた時に俺の動かない手や足を一生懸命さすりながら「頑張らなんよ。頑張らなんよ。」と繰り返すのがどうにも耐えれずに声にならない声で八つ当たりしてしまい追い返してしまいました。言われなくても頑張ってんだ、と。母親が帰った後に俺は後悔で涙しました。なんて馬鹿なことをしてしまったのか、と。しかし母は次の日も面会に来てくれました。文字盤でごめんと伝えました。よく見えなかったけど母は泣いていました。
ある時、幾分動く舌で口の中を探っていたらあるはずの口ピアスがないことに気づき必死で看護師さんに伝え、なんとか理解してもらい、そこからてんやわんやの大騒ぎ。何かの拍子でキャッチが外れ、飲んでました。結局特に異常もなく事無きを得ましたが。
いよいよ人口呼吸器を抜くという日。ベッドを医師や看護師の方が取り囲む中、俺の枕元の機器のアラームがけたたましく鳴り響きました。緊張して心拍数が上がり過ぎたんですね。恥ずかしくて真っ赤になる俺と爆笑する看護師さん達…。
呼吸器を抜いて最初の言葉は妻にかけると決めていました。夕方、面会に来てくれた妻にかすれた声で言いました。
「嫌いにならんでね」と。
顔の麻痺のせいで呂律も回ってなかったけど。その時の俺の精一杯の言葉はそれだったんです。
毎日、血中二酸化炭素量を測るために動脈からの採血をされました。検査を重ね、ようやく一般病棟の個室に戻れることに。
しかし、完全なる寝たきりには変わりはなく、栄養は鼻から胃に通されたチューブで液体を1日3回流し込まれていました。点滴を常にしているせいで腕の血管は細く硬くなり看護師さん泣かせな患者でした。
この時、体重は45Kgまで落ちていました。
個室に戻れたので母がうちの息子を連れてきてくれました。クリスマスも1歳の誕生日も一緒にいてあげれなかった息子と久々の再会。久々に会う息子はすっかり大きくなっていました。そこで母が俺の枕元に息子を座らせようとしてくれました。しかし、息子は俺の姿を見て泣いて嫌がるのです。身体中、管だらけで痩せ細った俺をパパだとわからなかったのでしょう。1人になった個室のベッドで咽び泣きました。自分が情けなくて情けなくて。病魔を心底恨み、自分を責めました。
ある日、主治医が病室に来て「ここまで進行した場合、後遺症は重い。もしかしたら回復したとしても車椅子までかもしれない。万一歩けるようになったとしても走る事は不可能でしょう。」と言いました。俺は主治医にまたバンドでドラムを叩きたいんですと伝えました。しかし「それはまず不可能です。職場復帰でさえも難しいかも。」という返答。目の前が真っ暗になりました。もうダメなのか、と。
その日の夜、面会時間終了間際に仕事を終えたSOUL CRAFTのボーカル、マサツグさんが会いに来てくれたんです。
その時マサツグさんは痩せ細った俺にびっくりしながらも「まぁ、今年の年末オールナイトでさ、1曲でもいいからさ、やりなよ。それを目標に頑張りゃいいじゃん」と言ってくれました。昼間に真っ暗になった目の前に一筋の光が射した気がしました。
俺が入院した年末に行われたオールナイトライブはSOUL CRAFTのドラム木村さんが急遽 曲を覚えてくれてヘルプで叩いてくれたおかげでBUILDはライブをやれたのです。
俺はこの時、また必ずスティックを握りステージに上がる事を誓いました。必ずSOUL CRAFT企画の年末オールナイトライブで復活する、と。
この病院に歩いてきてあの主治医に会うんだ、と。
そして何よりも息子をまたこの手で抱っこするんだ、と。
国立医療センターからリハビリ専門病院に転院の話が決まったのはその数日後のことでした。
最終回3日目に続く。