「こころと身体の平和バトン 」
これは、広島市西区太光寺の副住職東和空さんの発案で天城流湯治法 杉本錬堂さんから始まったもので、バトンは次々と繋がり、
俺はこの度、兄のように慕っている大好きなTHE PRISONERのヴォーカリスト 潤一郎さんからこのバトンを託されました。1日目~3日目の計3編を書いていきます。

心と身体。このテーマで俺が書けることは何だろうと考えてみました。
御存知の方もいらっしゃるかと思いますが、俺は数年前にとある難病を発症しました。
今回はその時のことを書いていこうと思います。
まずは1日目「発症」

2011年12月。クリスマスを間近に控えたある日の事でした。仕事中に手足に痺れを感じ始めたものの、元来ひどい冷え症の俺はそのせいにしてさほど気にもせずにいました。しかしその日の夜は全身の関節を鋭い痛みが襲い眠れず、翌朝になっても手足の痺れは増すばかりでさすがに仕事を休み、近所の内科へ。CT検査の結果は異常もなく、また明日痺れが退いてなかったら脳神経外科を紹介するから来てくれと言われ帰宅。夕方になりいつものように息子を保育園に迎えに行き帰宅後に一緒にお風呂に入っていると、お湯に触れる感覚がいつもと明らかに違うことに気づきました。やがて1歳の誕生日を迎える息子を抱き抱える腕にうまく力も入りません。この時、何かとんでもないことになったのではないかという不安に襲われ風呂上がりに息子を拭きながら抱き締めて泣きました。この子と離れなきゃならないのかもしれないという嫌な予感がしたのを覚えています。
翌朝、既に一人では歩けない状態に。仕事が休みだった妻の肩を借りて昨日の内科へ。即、近くの脳神経外科病院を紹介され、着くなり髄液検査で背骨に注射針が。鈍い痛みが背中を襲いました。MRIも受けましたが検査結果はまたしても異常無し。そして救急車で国立医療センターへ運び込まれ、煌々と明るい処置室でいきなり素っ裸にされ検査。恥ずかしいがそう言える状況でもなくまな板の鯉状態。
医師が呟いた一言が聞こえました。
「ギランバレーの初期段階かもだなぁ。」
なんか聞いたことあるなぁと思いながらも頭の中ではイアン・ギランがバレーしてました(笑)
とりあえず空いていた外科の四人部屋の病室に運び込まれ点滴三昧。
食欲などあるわけもなく、しかも唇や舌や喉も痺れ始めていてむせるので食事も全く摂れません。
夜、背中に激痛が走り続け痛み止めの錠剤も座薬も効かず一睡も出来ないまま朝を迎えました。
翌日から検査の目白押し。病院中を車椅子で引きずり回されました。夜は背中の激痛で一睡も出来ず。食事は相変わらず摂れないので点滴三昧。歩くのも足がおぼつかないのでトイレには点滴のスタンドを歩行器代わりに行くしかありません。

夕方、神経内科の医師がベッドに。病名が告げられました。

ギラン・バレー症候群。
何らかのウイルス感染をきっかけに自ら作り出した抗体が自らの神経を誤って攻撃するという、発症の割合は年間十万人に一人か二人という国指定の難病。四肢の痺れから始まり最悪全身の筋肉が動かなくなります、と。
あの安岡力也をも苦しめた難病。
病名が判明したので神経内科病棟へ移動です。この姿を他人に見られたくなくて妻に頼み個室にしてもらいました。
この病気を治す治療の一つ、免疫グロブリン点滴が始まりました。五本を丸一日かけて。それを五日間連続。
しかし、症状はますます悪化。言葉も呂律が回らなくなり、痰が絡んでも咳き込む筋力がないため看護士さんに吸引をしてもらい、顔面は完全に痺れ、目も閉じれず、喉も動かないので水も飲めず言葉も伝わらずの寝たきり状態。寝返りが出来ないので夜も看護師さん達が2時間おきに来て床擦れ防止に寝返りをさせてくれる毎日。
頼んで買ってきてもらった雑誌、TATTOO
BURSTを読もうと思うも、手が本を支えられずに断念し、 おぼつかない手で持ってきてもらったiPodを何とか操作しYOUTH ANTHEM「未だ見ぬ夜明けを」を聴き、ベッドで号泣しました。
毎日お見舞いに来てくれる家族やバンド仲間達が心の支えでした。でも皆の顔がよく見えないのです。目の筋肉も動いてないのでまばたきが出来ずに眼病になっていたのです。
ある夜、背中の激痛に耐え兼ねてナースコール。来てくれた当直の看護師さんに背中をさすってもらえないか頼みました。すると看護師さんは舌打ちして少しさすって去っていきました。思わず携帯で妻に電話しました。もう帰りたい、と。
無理なことはわかってました。でも、言わずにはいれませんでした。悲しくて、悔しくて。
その翌日、昼過ぎになんだか呼吸がし辛くなってきたのでナースコール。とりあえず酸素マスクを、とのことでつけて様子を見るも全く呼吸は楽にならず吸えども吸えども酸素が入ってこない。主治医や看護師さんが慌ただしく病室に入ってきたところで意識が遠のいていきました。
12月28日、息子の1歳の誕生日の翌日。
死を覚悟した瞬間でした。

2日目に続く。