こんばんは。


昨日おとといと
お休みしてしまいすみません。


仕事が忙しかったのもあるのですが
私ごときにはショスタコーヴィチは
やはり荷が重いです。
それでも決めた以上は
なんとか書いてみます。

 


4番の作曲の前の話です。

ショスタコーヴィチは
「ムチェンスク郡のマクベス夫人」
というオペラを作曲し、
それは好評をもって迎えられました。

 


独裁者スターリンがそのオペラを
観に行ったときのこと、
スターリンはオペラの途中で
帰ってしまったのです。


なにかお気に召さなかったに違いない、
と周囲は騒然としました。

 

スターリンに嫌われることは

死を意味しました。


ショスタコーヴィチは死の恐怖を
感じました。


やがて、共産党機関紙プラウダに
「音楽の代わりに荒唐無稽」と
いう論文が発表され、
ショスタコーヴィチは
激しく批判されます。


スターリンの意に迎合するために
批判するほうも必死でした。


ショスタコーヴィチの音楽は
「形式主義的」だというのです。


「形式主義的」とはどういう意味か?


そんなことは誰にもわかりません。
言いがかりなんてどうでもいいのです。


ショスタコーヴィチは一斉に
マスコミから批判されました。


ショスタコーヴィチの周囲の人は
彼の生命の危機を感じました。


そんな中、交響曲第4番は作曲されて
いたのです。


第4番は完成し、
シュティードリーという指揮者が
初演を担当することになり、
交響曲第4番のリハーサルが
始まりました。


ところが、ショスタコーヴィチは
この交響曲のリハーサルを打ち切り、
初演を中止してしまいました。

 


理由は明らかになっていません。
外部から圧力があったためとも、
ショスタコーヴィチ自身が自主的に
初演を断念したとも
言われています。


ただ、第4番のような
過激な交響曲を演奏することは
非常に危険だったと考えられます。
中止にしたのは正解でした。

 


この曲はスターリン死後の1961年、
ようやく初演されます。
初演にこぎつけるまでには
大変な苦労がありました。


この傑作は初演中止後25年にして
ようやく陽の目をみたのです。

そして、初期の最高傑作として

世界中に注目されるのです。


それではまた。