M・スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち』(草思社文庫, 2011)をようやく、読み終えました。咀嚼するのに時間がかかりました。
この本は「邪悪」とされる精神が病んでいる人たちに関する深い洞察と理解を提示します。
この本を読んで私は「邪悪」とは、我欲を満たす為に、生命や生命力を殺そうとすることである、と捉えました。
助けが必要なこの病の人たちの多くは、熱心に「普通」を装い、抜け目なく「普通」に暮らそうとするので、助けが必要とは本人は勿論、周りも気づきません。この人たちは、自分たちが必要とするのは助けではなく支配や統御だ、と信じているからでもあります。
嘘を自らに、そして周りに吐き通して歪んだ精神を隠し、「普通」の仮面を被るのです。この仮面を保持する為に、特定の人(あるいは人達)をスケープゴートに仕立て上げます。
ペック医師によると、これらの人たちには罪悪感や自責の念が欠落し、不公平さや不条理による痛みに不感症で、これら本来自分たちが感じるはずの感覚を仕立て上げたスケープゴートに押し付けます。自分たちが経験した、あるいは経験している不正や不利を他に投影し、楽しむのです。
このような人たちの特性は
「(a)定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて穏微なかたちとる。
(b)通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過激な拒否反応を示す。
(c)立派な体面や自己像に強い関心をいだく。これはライフスタイルの安定に貢献しているのものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
(d)知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の統合失調症的思考の混乱が伴なう。」(p246)
他方、このような人たちは依存傾向が強く、自分たちは嘘で固めているのに、自分たちの耳に優しい、プライドをくすぐる言葉には簡単には騙されるようです。事実を確認する手間ひまを惜しむからです。そして、自分が何をすべきかの判断を他に求めたがります。自分自身で決定して今までと違う行動を始めるのをとても恐れます。
誰かにべったり寄りかかってしまうか、誰かをとことん自分の思い通りにしなければ生きていきていけない、と思い続けたいようです。
思い通りにする為の日常的手段は、言葉尻を捉えてなじる、相手のマイナス思考を引き出し愚弄する、隠している事を露にすると脅す、美や崇高さをけなす、他の人の楽しみや幸福を徹底的に嘲笑するなどです。さらには、暴言や暴力、悪意に満ちた行為やいじめ、執拗な脅しや嫌がらせも何の躊躇もなく行います。
ついには、「悪いのは自分ではなく、そのような事をさせるお前だ!」と、吐き捨てます。あらゆる言動が自分たちの正当性と他の人の落ち度や欠陥を証明する為なので、ひとときでもゆったり、のんびり、心安らかに過ごすのは困難でしょう。過度のアルコールや薬物に頼らない限りは。。。
「たいへんでしょうね。。。」と手が差し出されると振り払うと同時に、優しさを弱さと見なすので、餌食にする手がかりにしようとします。
それでもペック医師は、彼らが癒される為に手を差し出します。「邪悪さ」は病だと、捉えるからです。
ペック医師によると、重い症状の一つは共感の欠如。「もし自分がこの人だったらどうだろうか」という発想が全くない。
自分たち自身の感覚もほとんど麻痺しているので、いくら飲んでも食べても満腹と感じないようです。または、空腹感がない。ですから、食べる事にも喜びを感じられない。一見豪華な食事をしているようでも、実は貧しい食生活の場合が多く、身体的にも問題を抱えているのでしょう。
ペック医師が指摘するもう一つ重症なのは、受け取れない事。人の親切や思いやり、語りかけや訴えを受け取れない。
自分の思考枠や策略、偏見や魂胆以外には何も見えない、全く聞こえないのでしょう。それは、精神的な「視野狭窄」とも言える特性を持ち、
自分たちの意識が向いている限られた点と点以外の全体を見渡す能力に欠けているせいかもしれません。自分たちの悪意に満ちたのとは違う思考や行動がこの世には存在しているのが分からないようです。
ペック医師は、さらに深刻な症状は、自分たちと別な生き方をする権利を有する人間が存在しているのを知らない、と強調します。
ですから自分たちが望む様に行うよう他に強要するのは彼らには当然なのでしょう。自分のおもちゃの様に人間や動物を扱おうとするのです。
ところが不思議な事に、依存に陥りやすい。相手が居なければ自分は生きていけないと、思い込みます。しかし、その相手も同じ思いを持つはずはありません。それで一方的に相手を取り込み同化させようとするか、手放しで相手に取り込まれ同化するか、なのです。ゆえに、狂信的になりやすい。しかも、他の人を「狂信的」となじるのが得意です。
私達は、このような邪悪と診断される人たちの存在を認めるのが困難です。「変わってて、時々嫌な奴だが、でも良いところも。。。」と言葉を濁し、眼をそらします。この様な人たちの犠牲になっている存在には、さらに関心を向けません。「親子の問題だし、夫婦間の事なんで。。。」と、もっと言葉を濁し、眼を伏せます。
自分自身が当事者であれば、なおの事です。他人に自分が被っている実態を知られるのを極度に恐れます。「自分の不徳のせい、我慢や努力不足だから。。。」と、自分自身を責め、身内の恥を外に見せたくないと、泣きっ面に笑顔を強ばらせて嘘で隠蔽します。
ついに耐えきれなくなると、自分か相手を殺害して、事態から逃げようとします。しかし、逃げられません。自分自身の痛みや相手への怒りに向き合わない限り、この地獄は消えないのです。相手が強制する地獄に迎合しているからです。
幼い子供たちには、地獄から這い出る物理的な力がありません。「痛いから止めて」と訴えても無視され続ければ、「痛さ」を麻痺させます。「痛くない」振りをするだけではなく、「痛みを自分が求めている」振りをしてでも、この地獄から逃避します。それゆえ一層、周りは気づきません。
多くの犠牲者がそうですが、特に幼い子供たちの場合、彼らの方に問題がある、と見なされがちなのです。邪悪な人たちは善を装うのに長けています。そして、自分たちについて詳しく調べられるのを極端に拒むからです。
ですから残念な事に、多くの幼い犠牲者は成長して、邪悪な人間になります。邪悪に身を委ねずには生き延びれなかったからです。誰かが、「あなたはね、存在しているだけで大きな価値を持っているのよ。」(p317)と、心から心へと伝えたら、彼らは本来の善に成長していたでしょう。
さて、邪悪に成長した人たちは邪悪な言動を積み重ねながら、自分たちを悪から救い出す「聖者」を求めます。その者に無条件の愛で救済することを要求しても、自分たちが変わるのは一切拒否します。
「無条件に愛して助けるのがあなたの役目でしょう。」
「誰がそう決めた?」
「勿論私!」
「せっかくですが、お断り!」
「あなた以外にあなたを救える存在はない。その場しのぎか自分の都合で選択してきた結果をあな たは今、生きている。生き方を変えられるのはあなたしかいない。」
「でも、人類ってみんな一つなのでしょう。私の代わりにあなたが変えてよ!」
「私はあなたではないし、なりたくもない。」
そんなやりとりの後、自分に、そして邪悪な人に無言で問いかけるのは、「内に我欲や都合以上の何かを見いだし、動き出せるか?」
ペック医師は強く思いを述べる。「あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。」(p431)
邪悪さを見て見ない振りをするなら、それ故に生じる痛みや寂しさが見えない。ネガティヴな言動や在り方を否定するなら、内なる美や聖性も否定しかねないのです。
邪悪さを認めて初めて、人間の凄さを実感出来ます。なぜなら、私達人間一人ひとりの内には、冒されることのない最も逞しく、賢く、慈しみに満ちた生命が存在しているからです。その生命を自ら確認して内から現し働き出す時、誰からも邪悪さが陰も形もなくなります。
ですから、人間で在ることを私は心から感謝しています。
この本は「邪悪」とされる精神が病んでいる人たちに関する深い洞察と理解を提示します。
この本を読んで私は「邪悪」とは、我欲を満たす為に、生命や生命力を殺そうとすることである、と捉えました。
助けが必要なこの病の人たちの多くは、熱心に「普通」を装い、抜け目なく「普通」に暮らそうとするので、助けが必要とは本人は勿論、周りも気づきません。この人たちは、自分たちが必要とするのは助けではなく支配や統御だ、と信じているからでもあります。
嘘を自らに、そして周りに吐き通して歪んだ精神を隠し、「普通」の仮面を被るのです。この仮面を保持する為に、特定の人(あるいは人達)をスケープゴートに仕立て上げます。
ペック医師によると、これらの人たちには罪悪感や自責の念が欠落し、不公平さや不条理による痛みに不感症で、これら本来自分たちが感じるはずの感覚を仕立て上げたスケープゴートに押し付けます。自分たちが経験した、あるいは経験している不正や不利を他に投影し、楽しむのです。
このような人たちの特性は
「(a)定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて穏微なかたちとる。
(b)通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過激な拒否反応を示す。
(c)立派な体面や自己像に強い関心をいだく。これはライフスタイルの安定に貢献しているのものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
(d)知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の統合失調症的思考の混乱が伴なう。」(p246)
他方、このような人たちは依存傾向が強く、自分たちは嘘で固めているのに、自分たちの耳に優しい、プライドをくすぐる言葉には簡単には騙されるようです。事実を確認する手間ひまを惜しむからです。そして、自分が何をすべきかの判断を他に求めたがります。自分自身で決定して今までと違う行動を始めるのをとても恐れます。
誰かにべったり寄りかかってしまうか、誰かをとことん自分の思い通りにしなければ生きていきていけない、と思い続けたいようです。
思い通りにする為の日常的手段は、言葉尻を捉えてなじる、相手のマイナス思考を引き出し愚弄する、隠している事を露にすると脅す、美や崇高さをけなす、他の人の楽しみや幸福を徹底的に嘲笑するなどです。さらには、暴言や暴力、悪意に満ちた行為やいじめ、執拗な脅しや嫌がらせも何の躊躇もなく行います。
ついには、「悪いのは自分ではなく、そのような事をさせるお前だ!」と、吐き捨てます。あらゆる言動が自分たちの正当性と他の人の落ち度や欠陥を証明する為なので、ひとときでもゆったり、のんびり、心安らかに過ごすのは困難でしょう。過度のアルコールや薬物に頼らない限りは。。。
「たいへんでしょうね。。。」と手が差し出されると振り払うと同時に、優しさを弱さと見なすので、餌食にする手がかりにしようとします。
それでもペック医師は、彼らが癒される為に手を差し出します。「邪悪さ」は病だと、捉えるからです。
ペック医師によると、重い症状の一つは共感の欠如。「もし自分がこの人だったらどうだろうか」という発想が全くない。
自分たち自身の感覚もほとんど麻痺しているので、いくら飲んでも食べても満腹と感じないようです。または、空腹感がない。ですから、食べる事にも喜びを感じられない。一見豪華な食事をしているようでも、実は貧しい食生活の場合が多く、身体的にも問題を抱えているのでしょう。
ペック医師が指摘するもう一つ重症なのは、受け取れない事。人の親切や思いやり、語りかけや訴えを受け取れない。
自分の思考枠や策略、偏見や魂胆以外には何も見えない、全く聞こえないのでしょう。それは、精神的な「視野狭窄」とも言える特性を持ち、
自分たちの意識が向いている限られた点と点以外の全体を見渡す能力に欠けているせいかもしれません。自分たちの悪意に満ちたのとは違う思考や行動がこの世には存在しているのが分からないようです。
ペック医師は、さらに深刻な症状は、自分たちと別な生き方をする権利を有する人間が存在しているのを知らない、と強調します。
ですから自分たちが望む様に行うよう他に強要するのは彼らには当然なのでしょう。自分のおもちゃの様に人間や動物を扱おうとするのです。
ところが不思議な事に、依存に陥りやすい。相手が居なければ自分は生きていけないと、思い込みます。しかし、その相手も同じ思いを持つはずはありません。それで一方的に相手を取り込み同化させようとするか、手放しで相手に取り込まれ同化するか、なのです。ゆえに、狂信的になりやすい。しかも、他の人を「狂信的」となじるのが得意です。
私達は、このような邪悪と診断される人たちの存在を認めるのが困難です。「変わってて、時々嫌な奴だが、でも良いところも。。。」と言葉を濁し、眼をそらします。この様な人たちの犠牲になっている存在には、さらに関心を向けません。「親子の問題だし、夫婦間の事なんで。。。」と、もっと言葉を濁し、眼を伏せます。
自分自身が当事者であれば、なおの事です。他人に自分が被っている実態を知られるのを極度に恐れます。「自分の不徳のせい、我慢や努力不足だから。。。」と、自分自身を責め、身内の恥を外に見せたくないと、泣きっ面に笑顔を強ばらせて嘘で隠蔽します。
ついに耐えきれなくなると、自分か相手を殺害して、事態から逃げようとします。しかし、逃げられません。自分自身の痛みや相手への怒りに向き合わない限り、この地獄は消えないのです。相手が強制する地獄に迎合しているからです。
幼い子供たちには、地獄から這い出る物理的な力がありません。「痛いから止めて」と訴えても無視され続ければ、「痛さ」を麻痺させます。「痛くない」振りをするだけではなく、「痛みを自分が求めている」振りをしてでも、この地獄から逃避します。それゆえ一層、周りは気づきません。
多くの犠牲者がそうですが、特に幼い子供たちの場合、彼らの方に問題がある、と見なされがちなのです。邪悪な人たちは善を装うのに長けています。そして、自分たちについて詳しく調べられるのを極端に拒むからです。
ですから残念な事に、多くの幼い犠牲者は成長して、邪悪な人間になります。邪悪に身を委ねずには生き延びれなかったからです。誰かが、「あなたはね、存在しているだけで大きな価値を持っているのよ。」(p317)と、心から心へと伝えたら、彼らは本来の善に成長していたでしょう。
さて、邪悪に成長した人たちは邪悪な言動を積み重ねながら、自分たちを悪から救い出す「聖者」を求めます。その者に無条件の愛で救済することを要求しても、自分たちが変わるのは一切拒否します。
「無条件に愛して助けるのがあなたの役目でしょう。」
「誰がそう決めた?」
「勿論私!」
「せっかくですが、お断り!」
「あなた以外にあなたを救える存在はない。その場しのぎか自分の都合で選択してきた結果をあな たは今、生きている。生き方を変えられるのはあなたしかいない。」
「でも、人類ってみんな一つなのでしょう。私の代わりにあなたが変えてよ!」
「私はあなたではないし、なりたくもない。」
そんなやりとりの後、自分に、そして邪悪な人に無言で問いかけるのは、「内に我欲や都合以上の何かを見いだし、動き出せるか?」
ペック医師は強く思いを述べる。「あらゆる人間の悪の根源が怠惰とナルシズムにある、ということが子供たちに教えられるようになることを私は夢見ている。人間一人ひとりが聖なる重要性を持った存在である、ということを子供たちに教えるべきである。」(p431)
邪悪さを見て見ない振りをするなら、それ故に生じる痛みや寂しさが見えない。ネガティヴな言動や在り方を否定するなら、内なる美や聖性も否定しかねないのです。
邪悪さを認めて初めて、人間の凄さを実感出来ます。なぜなら、私達人間一人ひとりの内には、冒されることのない最も逞しく、賢く、慈しみに満ちた生命が存在しているからです。その生命を自ら確認して内から現し働き出す時、誰からも邪悪さが陰も形もなくなります。
ですから、人間で在ることを私は心から感謝しています。