長谷川式認知症診断で3つしか答えられなかった母は、重度の認知症と診断された。
診断された場所は、いわゆる「精神病院」であった。
それまで心のカウンセリングや「ものわすれ外来」など数箇所訪ねたが、3分ほどの問診の後アルセプトを投与されるか、脳のCTスキャンをされた後「海馬の辺りが特に萎縮されています。薬を飲んでも効かないでしょう。」と言い渡され、なんのアドバイスも介護のサポートも得られなかった。
試行錯誤を繰り返す数年が経った後、意を決してこの精神病院を母と訪ねたのだ。
病院の待合室に長時間待っていられない母、どの病院にも来た理由は私に説明されているので分かっているのだが、母にも私にも意味なく長い間待つのは、特に母にはこたえたので、在宅診療をしている医療施設に十数か所電話した。
しかし、「認知症です」と告げると、医療施設は「精神的疾患の方は・・・」と言明したりそうでなかったりだが、とにかく全部に断られた。
「認知症は医療関係者からも精神病とみなされているのか」と驚きながら、それなら精神病が専門の病院ではどのような診断や治療をするのかを見届けようと、母を「精神病院」に連れて行ったのだ。
「精神病院」では中年の医師が母と私が診察室に入るなり「認知症でいらしたのですね」と母の眼前で言い、突然「今日は何年の何月何日ですか?」と尋ねた。
医師(私達が廊下で待っている前をそぼそぼと老人のように歩く白衣の男性が居て、母は「この人お医者さんかしら?」と不思議がっていたその男性だった!)が、突然年月日を尋ねたので母はしどろもどろ。
次々に尋ねられる内容に、母は「この人はこんな事が分からないので私に尋ねているのだろうか?」といぶかしがりながら黙っているのが、横に座っている私には感じられた。
「野菜の名前を知っていますか?」と尋ねられた時母はついに、「かわいそう、野菜の名前も知らないのね、このお医者さん!」と言わんばかり私に目で合図した。医者に自分などが教えて良いかしばらく思案してから、「聖護院とか・・・」とぼそっと言った。
しかしその時には既に、母は野菜の名前が分からないことになっていた。
医師は「聖護院って?」と頭をふりながら私に聞いた。「聖護院って大根でしょ!」と私は叫びたかったが飲み込み「なんでしょうね・・・」と答えて教えなかった。
認知症が精神病とみなされているのが問題なのではない。人間を身体と精神を分断するのが、さらには精神病の患者を人間とみなさないのが問題なのである。
記憶力が退化し判断力が低下して、認識が混濁し、周りには意味不明な言動をしても、本人には意味がある。心がある。
母は不要な記憶は捨てて大切な記憶だけを心に留め、一日一日をありったけで生きている。
時には周りの者が頭をひねらなければならない程高度なユーモアを口にし、誰にも何をしてもらっても「ありがとう」と言い、私が眼を見ながら「ほんとう」の事を伝えると受け取って「分かった」と応え、人が困っていたら手を差し伸べ、誰かの髪型や服装に乱れがあれば直してあげようとし、子供の可愛い動作や美しい風景に感動する。
精神がとても豊かな母である。
診断された場所は、いわゆる「精神病院」であった。
それまで心のカウンセリングや「ものわすれ外来」など数箇所訪ねたが、3分ほどの問診の後アルセプトを投与されるか、脳のCTスキャンをされた後「海馬の辺りが特に萎縮されています。薬を飲んでも効かないでしょう。」と言い渡され、なんのアドバイスも介護のサポートも得られなかった。
試行錯誤を繰り返す数年が経った後、意を決してこの精神病院を母と訪ねたのだ。
病院の待合室に長時間待っていられない母、どの病院にも来た理由は私に説明されているので分かっているのだが、母にも私にも意味なく長い間待つのは、特に母にはこたえたので、在宅診療をしている医療施設に十数か所電話した。
しかし、「認知症です」と告げると、医療施設は「精神的疾患の方は・・・」と言明したりそうでなかったりだが、とにかく全部に断られた。
「認知症は医療関係者からも精神病とみなされているのか」と驚きながら、それなら精神病が専門の病院ではどのような診断や治療をするのかを見届けようと、母を「精神病院」に連れて行ったのだ。
「精神病院」では中年の医師が母と私が診察室に入るなり「認知症でいらしたのですね」と母の眼前で言い、突然「今日は何年の何月何日ですか?」と尋ねた。
医師(私達が廊下で待っている前をそぼそぼと老人のように歩く白衣の男性が居て、母は「この人お医者さんかしら?」と不思議がっていたその男性だった!)が、突然年月日を尋ねたので母はしどろもどろ。
次々に尋ねられる内容に、母は「この人はこんな事が分からないので私に尋ねているのだろうか?」といぶかしがりながら黙っているのが、横に座っている私には感じられた。
「野菜の名前を知っていますか?」と尋ねられた時母はついに、「かわいそう、野菜の名前も知らないのね、このお医者さん!」と言わんばかり私に目で合図した。医者に自分などが教えて良いかしばらく思案してから、「聖護院とか・・・」とぼそっと言った。
しかしその時には既に、母は野菜の名前が分からないことになっていた。
医師は「聖護院って?」と頭をふりながら私に聞いた。「聖護院って大根でしょ!」と私は叫びたかったが飲み込み「なんでしょうね・・・」と答えて教えなかった。
認知症が精神病とみなされているのが問題なのではない。人間を身体と精神を分断するのが、さらには精神病の患者を人間とみなさないのが問題なのである。
記憶力が退化し判断力が低下して、認識が混濁し、周りには意味不明な言動をしても、本人には意味がある。心がある。
母は不要な記憶は捨てて大切な記憶だけを心に留め、一日一日をありったけで生きている。
時には周りの者が頭をひねらなければならない程高度なユーモアを口にし、誰にも何をしてもらっても「ありがとう」と言い、私が眼を見ながら「ほんとう」の事を伝えると受け取って「分かった」と応え、人が困っていたら手を差し伸べ、誰かの髪型や服装に乱れがあれば直してあげようとし、子供の可愛い動作や美しい風景に感動する。
精神がとても豊かな母である。