色鮮やかなネオンに浮かび上がる高層ビル群や観覧車。中国黒竜江省の街、黒河の夜景だ。幅1キロ足らずのアムール川(中国名・黒竜江)を隔てたロシア極東アムール州のブラゴベシチェンスクで周囲を見渡すと、古い低層アパートの明かりが細々と漏れてくるだけだった。
桟橋から頻繁に出ている小さなフェリーで約15分。短期滞在ならロシア人はビザ(査証)なしで簡単に往来できる。黒河の港から近い商業施設では雑貨や衣類、電気製品などの品々が軒先に並び、中国人は商魂たくましくロシア語で値段交渉をしていた。
「洋服や靴など日用品は中国の方がはるかに安く、種類も豊富。皆、買い物や保養のために頻繁に行き交っている」とブラゴベシチェンスクのロシア人教師、イワノワさん(57)は話す。中国側で買い込んだ商品をロシア側でさばく「担ぎ屋交易」も盛んで、黒河から戻るフェリーには大きな袋や段ボールをいくつも持ち込むロシア人が目立った。
極東の一部ではソ連崩壊後の1990年代、中国人の大量流入を警戒する“黄禍論”が声高に叫ばれた。が、今や中国なしに人々の生活は成り立たない。
ブラゴベシチェンスクと黒河は、帝政ロシアと清朝の時代からの複雑な中露関係史を体現している。第二次世界大戦後の短い友好期を経て、60年代には中ソ対立の最前線となる。商業関係は断絶して軍備が増強され、ブラゴベシチェンスクは外国人が立ち入りできない「閉鎖都市」となった。中ソの武力衝突としては69年のダマンスキー島(珍宝島)事件が知られているが、ブラゴベシチェンスクと黒河の一帯でも流血事件はあったという。
両市が再び交易拠点として再生するのは、ゴルバチョフ共産党書記長が登場し、中国や西側諸国との関係改善に乗り出したソ連末期のことだ。2008年までには中露国境の画定問題もすべて決着し、両岸は現在、安定した関係にある。
しかし、ソ連崩壊後の20年間は、社会主義の兄貴分だったロシアが中国の弟分へと転落する過程でもあった。ブラゴベシチェンスクの市民は1990年代以降、「かつては村のようだった」という黒河の急速な発展を目の当たりにしてきた。
「90年代初頭のロシアはさまざまな工業製品を中国に輸出していた。しかし、近年はロシアが資源や原料ばかりを輸出し、中国から付加価値の高い製品が入ってくる構図だ。中国はロシアの貿易相手として首位だが、貿易の内容という点では望ましくない」
こう指摘するアムール国立大のティモフェーエフ准教授(46)は、「アムール州は中国に石油や石炭、木材などを供給する際の“積み替え地”と化した。州内でせめて一次的な加工だけでもできるようにすべきだ」と、日本など外資の誘致に期待を寄せる。ロシア極東連邦管区の人口がわずか628万人なのに対し、面積が7分の1の中国東北3省には1億人以上がひしめく。モスクワは中国の「人口膨張圧」を潜在的脅威と認識しており、中国の単なる資源供給地に成り下がったことにも危機感を募らせる。プーチン政権が極東開発を急ぐのも、中国に対する根深い警戒心があるからだ。
アムール州には極東の水力発電能力の3分の2が集中しており、2009年には中国への電力輸出も始まった。黒河の夜を彩るネオンをともしているのも、実はロシアなのだ。