第20回助っ人外人列伝 | 金満血統王国信者

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馬券購入のヒントになるデータと日々の出来事などを好き勝手に書いてみたいと思っています

中学生の頃より応援し続けた球団『近鉄バファローズ』

(最終的には『大阪近鉄バファローズ』)

残念ながら2005年オリックスとの合併により球団は消滅。それに伴い私の野球熱も急速に冷めていったわけですが、野球経験のない私をここまでプロ野球に熱中させてくれた球団に敬意を表し、記憶にある選手を少しずつではありますが紹介、この球団の面白さを伝えられたらと思います。

 

節目の20回目はこの選手

ラルフ・ブライアント(外野手)

 

1988年入団。とはいうもののシーズンの最初からいたわけではありません。

以前デービス の回で紹介しました通り、シーズン当初は

デービス・オグリビー

の助っ人コンビだったのですがデービス

大麻栽培&所持の容疑で逮捕

新たな助っ人外人を獲得できる期限がすぐそこまで来ていたこともあり、海外に探しに行くのではなく

中日ドラゴンズの2軍にいた外人助っ人を獲得

こうしてシーズン途中の入団となったのが

ラルフ・ブライアント

 

ここでよく言われるのが

中日の2軍でくすぶっていた外人選手を獲得

という書かれ方。

しかし、実際はちょっと勝手が違うようでして、

当時のルールで助っ人外人は投手・野手合わせて2人までしか1軍登録できない

中日には郭源治・ゲーリーという実績ある選手が1軍にいたためブライアントが入る隙間がなかった

結果的に2軍暮らし

になっていただけであって

中日首脳陣からも打者としての評価は高かった

ようです。実際に近鉄に金銭トレード話があった時に

2軍監督はじめ、コーチ陣からは反対の声があがった

そうで、中日サイドとしても

決してダメ外人と判断しての放出ではなかった

ということは前置きさせていただきます。

 

こうして近鉄に入団することとなったブライアントですが、今までの鬱憤を晴らすかのように移籍してから打ちに打ちまくりました

(変化球でかわすピッチングが主流だったセ・リーグと違い速球でグイグイ押してくる豪腕派が多かった当時のパ・リーグが合っていたということも手伝ったと思われる)

88年といえば

伝説の川崎球場ダブルヘッダー

2試合目時間切れ引き分けにより惜しくも優勝を逃す

劇的なシーズンでしたが

出場74試合ながら

打率.307

本塁打34

打点73

という成績で大暴れ。仮に130試合換算すると

本塁打60本ペース

という驚異的な成績で存在感を示し、優勝はできませんでしたがドラマチックな88年シーズンはこの選手抜きには語ることができない存在となりました。

 

1年間フルに出場したらどうなるんだ?

と、期待と不安が混じった2年目も大活躍

打率.283

本塁打49

打点121

見事にホームラン王を獲得。特にこの年ファンでなくても衝撃を与えたのは

西武とのダブルヘッダーで2試合にまたがり4連続ホームランを決めリーグ優勝を決定づけたあの試合

中でも1試合目は

ソロ→満塁→ソロ

3打席連続。この試合の近鉄の全打点をブライアントのホームランで取るという離れ業を演じました。

この試合の3本目のホームラン(ソロ)

速球派として全盛だった西武渡辺久投手

「絶対に打てない」

と自身を持って投げた速球を

ライトスタンド上段に突き刺し、ガックリとマウンドで膝をついたシーン

後に日本球界を引退する時に打たれた渡辺久

「現役生活で一番印象に残った出来事」

として語ったことで有名なおはなし。

 

そして残念ながらその年の日本シリーズでは

伝説の3連勝4連敗

で日本一になれませんでしたがこの年の

パ・リーグMVP

に選出され、完全に近鉄に無くてはならない存在になりました。

更に忘れてはいけないのが三振

ホームランキングを獲得したこの年、

年間三振187

という当時の新記録を打ちたて

ダントツの三振王

にも輝き?

ホームランか三振か

というイメージを確立させ始めた年でもあります。

 

3年目以降はちょっと打撃が雑になり?打率は急降下。ますます

ホームランか三振か

のキャラ色が強くなり、

90年29本塁打198三振

(三振日本記録更新)

91年22本塁打100三振

(ヒザの故障で出場63試合だったのでシーズン換算だと45本塁打206三振ペース!!)

92年38本塁打176三振

ケガでシーズンの半分を棒に振った91年を除けば

89年~三振キングの座に君臨

しかしながらホームランはそれを補って更に余るほどの魅力。派手な花火を多く打ち上げてくれたのですが

この3年間は西武のデストラーデがホームランキングに君臨

バット折りのパフォーマンスも手伝い三振のほうが際立つ選手になりました。

 

そして1993年。

この年は42本塁打で2度目のホームランキングに輝きます。

更に107打点でブライアント自身初の打点王にも。

が、

それと同時に

年間204三振

で、三振王にもなりついに200の大台を突破

歴代のシーズン三振記録を振り返っても200以上の三振はブライアントだけ

それだけ積極的に打ちに行っている証拠でもあるわけですが

ファンとしては三振ばかりで歯痒いシーンも多かったが当たればピンポン球のように弾け飛ぶホームランは特筆モノで、スリリングなスラッガー、見ている者を魅了し続けたすばらしいホームランバッターでした

 

翌94年も

35本塁打で3度目のホームランキングを獲得

そして久々の巧打も復活(苦笑)

打率.293

と高い打率を誇り、年間三振も

153

ブライアントにしては少なめな数字。

それでもダントツの三振王でした(笑)

ちなみに1994年といえば、

イチロー初のシーズン200安打以上を記録しフィーバーした年。

この活躍の陰に隠れていますが

ブライアント(本塁打王)が

打率.293

本塁打35

打点106

石井浩郎(打点王)が

打率.316

本塁打33

打点111

と恐怖の3番4番を形成し、第2期いてまえ打線を確立。他球団の驚異となったのはいうまでもありません。

 

実働7年のシーズンを終え、ただ振り回すだけではなく巧打の復活で

ベテランの味

も追加。まだまだ近鉄にブライアント健在を感じさせてくれたのですが

 

1995年

豪打も巧打も完全にナリを潜め

打率1割台

と大不振。さらに故障を発症。シーズン途中でしたが帰国。そのまま退団となってしまいました。

 

長きにわたり近鉄打線を引っ張り続けた助っ人はついに近鉄のユニフォームを脱ぐことになりました

 

・打ち勝つ野球が信条のチームカラーを象徴するような打撃

・ホームランか三振か。派手なパフォーマンス

(本塁打王通算3回、三振王通算5回)

 

ファンでなくてもその存在を知らぬ者ナシ

のバツグンの存在感。近鉄助っ人外人の歴史を語る上でこの人を抜きに語ることはできないでしょう。

20番目と遅い順番になってしまいましたがようやくの紹介に至りました。

個人的にも一番近鉄に魅了されていた頃に活躍した選手。思い出深いです。 

 

余談になってしまいますが

無冠の帝王

というあまり嬉しくない称号を持つ

清原和博選手

通算本塁打数は2006年シーズン終了時点で

王貞治

野村克也

門田博光

山本浩二

に続く歴代単独5位。これだけのスラッガーなのですが、

獲得した主要タイトルが一つもない

という清原選手。その原因のひとつは

デストラーデ

ブライアント

といった更に上を行く強力スラッガーがいたことでしょう。

 

特に

清原選手西武ライオンズ時代充実期だった(と思われる)時期は

デストラーデ3回(90~92年)

ブライアント3回(89年、93年、94年)

6年間にわたってこの2人でキングを独占

デービス 落合・ブーマー3冠王の前に無冠で終わったように

時代のイタズラ

としか言いようがありません。

 

 

そんなパ・リーグの顔でもあったブライアントですがこの選手を語る上で忘れてはいけないのが

三振後にヒザでバットをヘシ折る

パフォーマンス。珍プレー好プレーでもたびたび登場したシーンではありますが、それ以上に

いくつもの野球ゲームでこの演出を採用

(三振した選手がバットをヘシ折る)

していることのほうが、与えた影響は大きいでしょう。

オグリビー バットクルクル回し

と同様、ゲーム業界にも影響を与えた選手。こういうインパクトの強い選手がパ・リーグには多かったです。

※その他の演出※

阪急アニマル(試合終了後の暴走)

西武秋山(ホームベース上でバック転)

西武デストラーデ(ホームラン後のパフォーマンス)

日ハムウィンタース(変装・コスプレ)

ロッテ諸積(雨の日はベースランニングでホームベースヘッドスライディング)

などなど同時期だけでも多数。

 

 

これ以外にも

説明不要なブライアントの残した足跡

・東京ドーム天井のスピーカーに直撃。東京ドーム唯一の認定ホームランを打った

(設計上は170mくらいの弾道でなければ当たらない計算らしいです)

・年間三振記録1位~4位はすべてブライアントが独占

(通算5回の三振王はシーズン記録1位、2位、3位、4位、9位)

更に年間200以上の三振記録は日本だけではなくアメリカメジャーリーグを入れてもブライアントだた1人

(ともに2006年シーズン終了現在の記録)

・89年ダブルヘッダー4連発を決めた際のヒーローインタビューでの一言

「アンビリーバブル」

(発音的にはアンビリーバボー

がこの年の流行語に選出された

・福岡ドーム公式戦第1号ホームランを打つ

(福岡ドーム建立当時、両翼も広くフェンスも高いことから「ホームラン数が減るのでは?」と危惧されていた中でリーグ屈指の打者が打った)

・節目の本塁打記録(100号・150号・200号・250号)の史上最速ペースを塗り変え続けた

(100号だけは1試合差で死守したが150号・200号の記録は西武カブレラ更新された。250号はカブレラとタイ記録で保持中)


 

と、多種多彩。

更に

・「オレのことを『エディ』と呼んでくれ(外見がエディ・マーフィに似ていると自分で思っていたので)」

とチームメイトに言っていた

・解雇された95年オフのファン感謝デーに呼ばれていないのに飛び入りで参加。ファンを喜ばせた

 

とオチャメというかプライベートでもチームメイトやファンを大切にしていたブライアント

 

記録ももちろんながらインパクトの強い選手として日本球界に残した功績は大きいと思います。ファンを自負する私としても本当に偉大な選手であったと思います。

 

▲補足▲

この記事を書くに当たってデータを調べた際に初めて知った事

(それまでは以下の事実は知りませんでした)

・1試合3本塁打通算8回の世界記録保持者

・移籍した当初からホームランを打ちまくったブライアントですが、なぜか2ランホームランが多く「ミスター2ラン」と呼ばれていたらしい

 

ブライアント8年間の通算記録

出場試合数773試合

打数2980

安打778

本塁打259

三振1186

通算打率.261

単純換算すると・・・

1試合平均1本はヒットを打っていた

(意外にも打っている??)

確率的にはヒット3本打てば1回はホームラン

(さすが!)

5回打席に立てば2回は三振

(さすが!!)

1年や2年での結果ではなく8年もの積み重ねで作った成績でもこの確率

 


数字が示す通りやっぱりインパクトのある素晴らしいバッターでした。