日記書き換えと公家逃走  本能寺の変の謎(戦国漫遊録  第269回) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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【本能寺の変 兼見の日記書き換えと前久の逐電】

織田信長画像

 

本能寺の変後、おかしな動きが出て来ました。まず明智光秀と非常に仲が良かった京の吉田神社の神官、吉田兼見です。

 

兼見は何回も光秀と茶会や連歌会をしています。武将の細川幽斉のいる丹後へ光秀と行って現地で連歌などを楽しんでいます。

 

明智光秀が織田信長を討ち果たした後、兼見は勅使として安土に向かいそこで光秀に会っています。

 

光秀はその後京都に戻りましたが、その際、銀子を朝廷や五山に贈呈していますが、兼見も50枚貰っています。

 

その後の山崎の戦いで光秀が秀吉に敗れると、兼見は書いていた日記を書き直す挙に出ます。

 

しかも新しく一月から書き換えてしまうのです。ところが書き換える前の日記も残ってしまいました。

 

光秀との親しさが明らかになると糾弾されると思ったのでしょう。追及されるのが怖かったのでしょう。

 

武太郎は親光秀派だった誠仁親王(さねひと・しんのう)に兼見らが働きかけて光秀の謀反にお墨付きを与える流れが作られたとみています。

 

いろいろ噂は流れていたのでしょう。兼見は山崎の合戦後、織田信孝の家臣を名乗る者から「お前は変に加担していたのではないか」と脅されています。

 

兼見は公家でもあった訳ですが、その公家の最高峰にいたのが近衛前久(このえ・さきひさ)でした。

 

変に関与していたと秀吉や先の信孝から疑われた前久は洛中から逃げ出して一時嵯峨に逼塞(ひっそく)するのです。

 

それでも危ないと思った前久は徳川家康を頼って遠江(とおとうみ=静岡)へ下向してしまいました。京にいては捕縛されると思ったのでしょう。

 

公家関与説には信長が朝廷権力の簒奪(さんだつ)を考えていたのではという見方が根強くあります。

 

信長は息子・信忠の娘と誠仁親王(正親町天皇の息子)の息子とを結婚させて、信長自身は外祖父として思いのままに朝廷も操ろうとしていたようです。

 

それを察知した前久は光秀の謀反を前に知っていた可能性があります。それは兼見を通じて前久に漏らされていたのではと思うのです。

 

光秀は朝廷工作に力を入れすぎて本能寺の変の後軍事面で後れを取ったとする見方もあります。

 

例えば、光秀が安土城にも寄らず朝廷工作も後回しにして備中の秀吉を追ったならどうなっていたか分からなかったということです。

 

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