信長、囲碁を観戦 本能寺の変前夜(戦国漫遊録  第267回) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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       【本能寺の変その6 茶会催す】

織田信長画像

 

天正10年(1582)6月2日の早朝に本能寺の変は起こり、明智光秀軍に攻められて織田信長は京で亡くなりました。光秀は信長の重臣でした。天下を揺るがす大事件でした。

 

信長の息子・信忠は本能寺から北東400㍍の妙覚寺にいましたが、明智光秀軍に攻められて隣の二条新造御所に移りそこで自害して果てました。

 

この本能寺の変の前々日、つまり5月29日に信長は小姓衆二十人から三十人を引き連れ安土城を出発してその日の夕方に京の本能寺に到着しています。

 

5月は小の月で29にちしかありません。だから29日の翌日は6月1日になります。つまり本能寺の変の前日です。

 

その1日、信長はどんな風に過ごしたかを調べてみました。1日、信長は本能寺で茶会を開きました。ここに主要な公家の当主が多数参集していました。

 

近衛前久、勧修寺晴豊、甘露寺経元、九条兼高、二条昭実ら40人に上りました。ある意味、壮観です。公家衆に信長の茶のお湯における力を見せつけたかったのでしょう。

 

というのも信長は早くから茶の湯を政治に利用していました。京都などで家臣に命じて茶器の名物狩りをしています。権力者の声掛けとあって断ることはできなかった訳です。

 

こうして集めた名物茶器を安土城で秘蔵していたのですが、信長は自らの権力と権威を見せつけるため安土城から名物茶器38種類を京に運び込み本能寺で展覧しました。

 

大変な名物ばかりです。逸品ぞろいでした。茶入れの九十九茄子(つくもなす)は梟雄(きょうゆう)の松永久秀が信長に献上したもので、将軍・足利家の家宝だったものです。

 

ほかに唐物茶入れの円座肩衝、非常に珍しい(武野)紹鴎(じょうおう)白・犬山かづき天目茶碗、(村田)珠光(じゅこう)茶碗などです。茶の湯に親しんでいる者にとってはいずれも垂涎(すいぜん)の的です。

 

この茶会で信長は甲斐の武田氏の討伐を語ったほか、少し問題になっていた暦のことも話したようです。

 

この暦問題は一言で言えば、閏(うるう)月をいつ入れるかということで、信長は尾張で使っている三島暦を採用すべきと朝廷に申し入れていたのです。

 

だが、暦をどうすべきかは朝廷、つまり古来、天皇の専権事項でした。朝廷は宣明暦を使っています。それを変えよと信長が蒸し返したようです。

 

晴豊は自らの日記に「これ信長むりなること候」と書き付けていました。

 

この日は日食だったようですが、宣明暦は予測できず信長は不信感を募らせたようです。

 

公家との茶会の後、信長は息子の信忠とともに囲碁名人の本因坊算砂と利玄(鹿塩利賢=かじお・としさと)と云う者の対局を熱心に観戦しました。

 

夜更けとなって信忠は宿所の妙覚寺に戻り、信長は寝所に入ります。この数時間後に明智光秀が本能寺を襲ったのです。

 

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※なお6月2、3日は休載致します。