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4Sは「for Steve」?

最初に買ったのが、Apple Clasic、次いでLC520、PowerMac、そしてi-Mac(2台)、MacBook(2台)計7台。ナンのこと?と思われるかも知れないが、Apple のパーソナルコンピュータの購入履歴。もちろん、OSやら関連ソフト(アプリケーション)、プリンター、あるいはDTPにも手を染めたから、フォント(アドビー社)なんぞも購入した。さらには、i=Pod、IPhone も各2世代を購入し、現在に至るから、その総額を計算すると、ざっと1000万円に近い数字になる。

なんの話かといえば、言わずと知れたApple社創業者であり、途中は追い出された時期もあったが14年前に再び社に戻り、以下の活躍というか、折しもインターネットの出現と時を同じくして飛躍的に会社を伸ばした張本人である、スティーブ・ジョブズ氏が亡くなったというニュースが今朝、舞い込んできた。ついこの間、CEOの座を後任に譲り、会長職に収まったと思ったら、この訃報である。


今年は震災のあと、私の人生において多くの影響を受けた物故者が次々と現れ、去っていく。先ほど、アップルのHPを開いたら、スティーブ・ジョブズ氏の近影と、ただゴシックで「1955~2011 Steave Jovs」とだけ記されたページが現れ、しばらくそのページを眺めていた。こういう時のこの状態を「感慨にふける」というのだと思う。


ナンで、アップルなの?ナンで、Macなの?と問われることが多かったが、ドットの粗いディザではなく綺麗なアウトラインで表示される文字が基本的に好きだった、あとはデザイン、遊び心を昇華させた操作性という陳腐な回答になってしまう。でも、終始一貫、それが変わらないからこそ、アップル一筋で貫いてきた、自分の人生に進化があったか否かは定かではないが、少なくともアップルの進化に引きずられて、生きてきた、それは確かだ。初期の漢字Talk6の時代から現在のMac OS Xに至るまで、そのOSの魅力にも引きずられ、この20年の歳月、私は多くの記事をマックのモニターで読み、多くの文章をマックに打ち込み、書籍、雑誌の多くのページングをマックで実現してきた。いま、iPhoneで書いたり、撮ったりしたものを、来週発表されるというi-cloudというシステムでストックしていくんだろうな。


スティーブ・ジョブズという一人のアメリカ人のことを忘れず、私の残り少ない人生は相変わらず、マックとともに、というかマックなしでは始まらない生活を続けていくんだろうな、というところまでが今日の「感慨」のおおよそです。


【深原 伊丹】

【Project Koutotsu Shinoda】 第10章

【原稿用紙45~48】

・45~



【エッセイ 「日常の光」】



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 あまりぱっとしない毎日です。外に出ないで、人とも会わず、部屋でパソコンを眺めているだけという日が多くあります。仕事柄、それは仕方のないことなのですが、人と比べては、何となく劣っているような気がしてしまいます。相対的にも、そして困ったことに絶対的にも、つまらんなぁ、というのが僕の日常なわけです。小説を書いている時などは自分の暗部を覗きこみますから、ますます日常からは色が褪せていきます。

そんな日常にも、わずかな光があるのではないかと思うようになったのは、カメラを持つようになってからです。ほんの些細なこと、たとえば、朝になって消えかかった窓ガラスの結露、そういったものに気づいた時、僕はそれにカメラを向けるようになりました。何もないような毎日でも、カメラを傍らに置いておくと、撮らなきゃ、と思うような一瞬が多くあることに驚かされます。撮らなきゃ、などと一瞬のうちには思いません。せめて、あっ、というぐらいのものです。しかしその、あっ、という瞬間、間違いなく心は動かされているのです。

写真は実物が目の前にないと撮れません。雄大な自然の姿を写すには、雄大な自然のある場所へと赴き、本質を撮りたいのなら、さらにその深部へと身を投じる必要があります。僕はそういう写真ではなく、日常でいいのです。僕の日常を撮れるのは、やはり僕の日常の中に身を投じ、どっぷりとつかってしまっている僕だけなのですから。しかしそれを独りよがりのものにせず、見た人が、何だかいいな、と感じてくれるようなものを撮らなければなりません。ただし、過ぎた演出や装飾はいらないのです。それは僕自身が人間として素晴らしく、ただの写真でも素敵に写る、というようなことでは決してありません。むしろ、過ぎた演出や装飾をしなければ素敵に写らないような日常の中で、あっ、と心を動かされた瞬間だからこそ、些細なことでも退屈な日常の光となり、何だかいいな、くらいの心地よい感想をもらえるのだと思っています。そしてその感想をもらうたびに、温かな喜びが、また僕の日常の光となってくれるのです。

日常に光をもたらすのは、自分のカメラだけではありません。近頃、街ではよくカメラを持った若い人を目にします。数年前に比べると、だいぶ増えているのではないでしょうか。何もない普通の道端で、不意にどこからかシャッターを切る音が聞こえて、辺りを探すと、カメラを手にした人が撮ったばかりの写真をディスプレイで確認しながら一つうなずく、などという光景もたまに見られます。そんな時、僕は、こう感じるのです。あぁ、何かこんな道端にも、その人は光を見つけたのだな、と。

 気づかずにいるだけ、なのですね。




(C)Koutotsu Shinoda 2011



【篠田康突】


【Project Koutotsu Shinoda】 第9章

【原稿用紙43~45】

・43~


【エッセイ 「完全理想映画」】



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 夢の中でたまに映画を観ます。目がさめても覚えていて、あぁ、これ何の映画だったっけな、と思って、そうだ存在しないんだった、とぐたっとなります。

 その映画はもう完全で、僕にとって非の打ちどころのない、理想の映画となっています。舞台は日本でしょうか。見たことがないようで、でもやはりあるような風景です。登場人物も日本人で、台詞は少なく、小さく流れる音楽とともに、せせらぎのように流れていくような、それだけなのに僕の人生を優しく肯定してくれるような、とにかく柔らかい映像が素敵なのです。

 現実の世界でも、僕はそれなりに映画をたくさん観てきましたが、完全だ、まさしく理想そのものだ、というような映画に出会うことはありません。僕が夢で観る映画に非常によく似た、とても近い映画というのも、現実に何本かあります。しかしそれらには必ず、数箇所、本当に些細な違和があり、それが致命的な欠点となってしまっています。

 夢の中で観る映画は、すべてのシーンを観られるわけではなく、細部まできちんと確認できません。夢なので、観たいと思った時に観られるものではなく、どこかにきちんと存在しているわけでもありません。つまり、とある映画を、ちらり、ちらり、とかいつまんで観ているだけであって、観えていない、説明されていない部分の方が圧倒的に多いのです。それ故、その映画を完全なもの、自分の理想の、とても素晴らしい映画だと感じているのだとも言えます。

 でも、不思議なことに、その映画を一本通して観てみても、やはり理想完全映画だった、と言いきれる予感がしているのです。つまり、細部に至るまで僕にとって粗がないということです。何となくではありますが、その全編上映は、死の直前、長いまどろみの中で叶えられるのではないかと予想しています。楽しみにするようなことではありませんが、少しだけ、死が怖くなくなりました。



(C) Koutotsu Shinoda 2011



【篠田康突】


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