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【Project Koutotsu Shinoda】 第6章

【原稿用紙35】

・35


【一言 「旅について」】




& it's.



 精神的にどこへも行けなくなったとき、人は、物理的な距離を移動したくなるものなのではないでしょうか。それが旅であると思います。

 


(C) Koutotsu Shinoda 2011


【篠田康突】

【Project Koutotsu Shinoda】 第5章

【原稿用紙25~35】

・25~


【短篇小説 「色鉛筆の煙草」】


& it's.




読書灯の柔らかい明かりの中で、親父は僕に背を向けていた。僕は渇いた喉を潤すため、何度か起きては真っ暗な夜の台所に水を求め、その度に、親父の背中を見た。僕に気づいて振り返ると、その手には必ず時代小説があり、今まで読んできた歴史の全てを自分自身に抱え込んだような、厳かな、重厚な顔で僕を見つめた。

咥えていた煙草を一口のむ。吐き出した煙に光の粒子が乱され、束の間、空間が揺れる。

「暑いか?」

 酒を飲んでいる時とは違う、思慮深い声。低くて、おっかない。

「扇風機が壊れよった」

「おいで」

 親父は煙草を咥え直し、竹細工の団扇を僕に渡した。張られた和紙には北斎の、いくつもの手が富士を襲おうとしている大波の絵が描かれていた。

「絵柄も涼しそうや」

 僕が試しに一つ二つとあおいでみると、かすかに煙もゆらめいた。甘ったるいような、苦いような、そんな匂いがした。

「汗拭いてから寝ぇよ。夏でも風邪は引くもんや」と、親父は煙草を奥歯で噛みしめながら僕の頭を撫でた。

 僕は布団に戻り、仰向けに寝転がった。団扇をはたはたと動かしながら、鼻の奥にまだ漂っている甘くて苦い匂いを嗅ぎ続けた。良い香りだった。夏の宵の倦怠を集めて億劫そうに立ち上る煙は大人の、しかも親父の思慮深さを支えている。その小道具は酔っぱらった赤い顔と歯止めのきかない下卑た饒舌を抑えるのに一役かっていた。

 僕は団扇の柄の先端を閉じた唇につけてみた。人差指と中指で柄を挟み、空気を吸い込んで息を止める。それからなるべく厳かにしかめた面をし、口をへの字に曲げて息を吐き出す。照明の消えた部屋の中、僕は「ふむ」と呟いて大いに満足した。

 翌朝、自分の机をあさった。何か口に咥えるのにちょうど良いものはないかと、引き出しという引き出しを開けては、母がそのあとを閉めて回った。

「もういい加減にしいよ。あんた、いったい何を探しとんの」

 煙草の太さと長さに似た物を探しているなんて言ったら、きっとげんこつを落とされるだろうと思ったので、「宝物や」とごまかした。当然家族は全員首を傾げた。

「宝物やから隠しといたんやけど、その場所が分からんようになってしまった」

 すると広げた新聞の陰から僕の奇行を見ていた親父が笑いだした。

「はっはっ、それで大慌てかいな」

 姉も「まぁ」なんて口元に手を添える。母は最後の引出しをぴしゃっと閉めて僕を食卓につかせた。

「探しといたるから。何を隠したん」

 母に言われ、僕は口ごもった。

「それ言うてしまったらあかんやん」

 すかさず口を出した親父に母は冷ややかなため息をついた。僕は楽しそうに子どもらしい笑顔を振りまきながら、頭の中では何が煙草の大きさにぴったりか模索していた。

 小学校での授業中も、僕はまだしつこく、煙草を探していた。チョークを一つ失敬しようとしたら、折れてぼろぼろのものしかなかった。それに咥えると、唾を吐いてもまずさが消えない。手も白くなるし、ちょっと太かった。

「今日の仙ちゃん、どこぞの学者みたいな顔しとるで」

 隣の席の紀子に言われ、僕はマカロニを皿に戻した。紀子は小学校のある坂の下、角の文房具屋の娘だった。クラスで一番初めにシャープペンシルを使いだしたのは、金持ちの田端でもきざったらしい谷崎でもなく、紀子だった。翌日からさっそく、「どこのなになにの、ほにゃらら社のものだよ」とシャープペンシルを自慢しだしたその二人に、紀子と一緒に「二番煎じや」とからかったのは記憶に新しい。僕らは仲が良かった。小学校に上がる前からの幼馴染だったから、彼女になら何でも話すことができた。

「僕の親父がな、煙草吸ってんよ」

「あぁ、それでいつまでもマカロニ咥えてたんね。早く食べんとドッジボールやれんよ」

「ドッジボールなんかほっとけ。なぁ、何か煙草みたいなもんないかな」

 紀子は牛乳を一息に飲み干した。「知らんわ」

「お前、文房具屋の娘やろう。何かないん、そういうもんは。思いつかんのか」

「鉛筆でええやん」

「鉛筆ったって、長いやん」

「短くすりゃええ」

「五角形やん」

「六角形や」

「あぁ、そうか。でも六角形の煙草なんてない」

「あんた知らんの、あるで」

「ないやろう」

「丸い鉛筆、うちに売っとる」

「よこせや」

「三分で全部食べ終わったらな」

「何でよ」

 紀子は顎をしゃくって教室前方の時計を指した。その途端に僕はあわててグラタンをかき込み、パンを押し込み、牛乳で流し込み、デザートのりんごを紀子のお盆に移した。

「ぎりぎりセーフやね」と紀子はりんごをしゃりっとかじった。

「奇跡起こしたで」

「あ、丸い鉛筆なら、ある。しかも白い」

「え、今さらなに」

 僕は喉元に胃がこみ上げてくるのをこらえた。

「色鉛筆」

「もっと早う言え。気持ち悪くて吐きそうや」  

「あら、時間内に食べんといけなかったでしょうが」

 食べ終わった食器を片付けたあと、机の中から色鉛筆のケースを出した。

「ほら、煙草そっくり」

「まだ一回も使っとらんのかぁ。短くせな」

「頑張れ」

 僕は新品の状態だった白色の色鉛筆を鉛筆削りで尖らせ、ノートに線を引いていった。早く使い切ろうと思い、我武者羅に闇雲に滅茶苦茶に、芯を浪費していった。芯が短くなったらまた鉛筆削りでがりがり尖らせ、何とか理想的な短さになるまで、根気よくそれを繰り返した。

 ノートの白いページを白い色で塗りつぶしていくという行為は、大変に哲学的な行為のように思えた。「同じ色のものを同じ色で覆うというのは――」と心の奥底を論じた学問があるのではないか、もしかしたら僕は親父が煙草を吸う以上に思慮深い行為をしているのではないか。学校から帰っても、僕は一人、机に向って色鉛筆の浪費に励んだ。

 珍しく机に向っている僕に家の者は再び首を傾げることになったが、親父の飲んだ酒のおかげで宝物の在り処を必死で思い出しているに違いないということになり、僕は思う存分、ノートを白で塗りつぶす、非常に崇高な行いに精を出すことができた。

そして翌日、ついに僕はやりきった。

「カッター貸してくれんか」

 僕は紀子にちょうど煙草ほどの長さにまで減った白の色鉛筆を見せた。

「ついに完成やね」

「だから早くカッター貸してくれ。尖ったとこ切らんと」

 紀子が筆箱からカッターを取り出すのを待ち切れず、彼女の手からひったくった。

 色鉛筆の、円柱の先に残る円錐を切り落とすため、カッターの刃を当てた。それが終われば煙草が手に入り、僕はそれを咥えてより一層渋い顔をし、紀子に言う。白に白を重ねていく行為を何というか知っとるかね。もちろん彼女はかぶりを振る。そこで勿体ぶってこう付け加えるのだ。哲学だよ、と。

 カッターの刃を木の部分に押し付けて、少しずつ切れ目を深くしていく。力のいる作業だった。だが芯に到達すると急に刃が進んだ。あとはもう簡単だった。ざくっと音がして、余分だった円錐が机の上に落ちた。 

「どうやっ」

 僕は煙草になった色鉛筆を紀子の前に掲げた。なぜか嬉しそうにもしないし、一緒になって喜んでもくれないので、例の質問をしてみることにした。きっと感嘆のため息を漏らすに違いない。僕はゆっくりと口に煙草を咥えた。

「あのさ、仙ちゃんさ、最初からそうすれば良かったやん」

「え、何が」

「ノートも芯も無駄にせんと、最初からその長さに切れば良かったんよ」

 口からぽろっと色鉛筆が落ちた。僕はその煙草もどきが、急にただの使い物にならないちびた色鉛筆にしか見えなくなった。

「先に切っとけば、もう一方の切れ端は使えたのに」

「そうやなぁ」と僕は呟いた。



(C)Koutotsu Shinoda 2011



【篠田康突】

【Project Koutotsu Shinoda】 第4章

【原稿用紙17~25】

・17~


【書評 「『KAGEROU』――「水嶋ヒロ」にまつわるエピソードとしての作品」】




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  センセーショナルな話題は、沈みかけている船を引き揚げ、きちんとした航路に戻す大きな力となりうる。その反面、船首の向きを間違えることもしばしばあり、時には船を沈めることもある。両刃の剣だということは言うまでもない。

 『KAGEROU』の場合は後者だったように思う。著者は「水嶋ヒロ」という名で人気俳優の地位を築いた齊藤智裕であり、人気歌手の絢香との結婚、俳優活動の休止を経たのち、いきなりの第五回ポプラ社小説大賞受賞、賞金の一千万円を辞退するという経緯が、彼の生んだ作品の内容に先行して話題となった。そして直後にポプラ社小説大賞の廃止、新たな賞の創設と賞金の減額に疑念が集中し、「出来レース」との批判も浴び、著者もろともポプラ社はネット上で槍玉に挙げられた。

 発売後も、ネット上では酷評が並んだ。その大半を、なぜこの小説が大賞をとったのか、という小説の出来に対する疑問が占めた。ポプラ社がどのような基準で大賞を決定したのか、選考の裏に「水嶋ヒロ」という名の効力があったのかなど、関心はことごとく作品からそれ、小説の中身をまっとうに批評する姿勢を見せているものはごく少数しか見受けられなかった。

 だが『KAGEROU』は本当に小説としての評価を望んでいるのだろうか。「SWITCH」(二〇一一年一月号)では「水嶋ヒロ 独白」として特集を組み、幼少期にスイスで暮らしていた頃のいじめや人種差別の体験、日本に来てからぶつかった言語の壁、人気の絶頂での結婚、活動休止、鮮烈な作家デビューと彼に迫っている。その中で水嶋ヒロは〈大袈裟かもしれないですけど、日本一の映画、世界に通用する映画を作りたいという思いで書いた作品なんです。〉と語っている。〈どんな映画であれ、まずは原作となる物語がなければ始まらない〉、というのが書いた理由のようだ。映画の元となる「物語」を作ることが目的だったといえる。となると、『KAGEROU』読了後に僕がまず抱いた「これは『KAGEROU』という小説を、丁寧に、事細かく、二三六ページも費やして説明した、長いあらすじだ」という印象も特に間違いではなかったということになる。つまり物語が進行していく中で、その時々の登場人物の行動や台詞を順番に説明していったものとしか感じられなかったのだ。

 大学時代、僕は文学の分野の中でも一風変わった場所にいた。文芸という名を冠する学科で、小説家志望の人たちが多く在籍していた。一年生の時に受けた授業の中で、とある講師がこんなことを言っていた。「君たちの書くものは小説ではない。長くて事細かなあらすじでしかない」と。この一言だけ強烈に覚えていて、その後に「では小説とは何か」などといった説明があったのかもしれないが、それは記憶にない。『KAGEROU』は、懐かしいその当時のことを思い出させてくれた。

 小説に限らず、映画や絵画、デザインなど、何かを作る上でテーマというのは非常に重く、大切な位置を占める要素だが、『KAGEROU』においては「命」が取り上げられている。著者がなぜそれをテーマに選んだかは、前出の「SWITCH」に詳しい。日本一の映画について、〈いつまでも語り継がれていくような作品であり、普遍性を持ったメッセージを備えたもの〉と彼は考えている。〈誰にとっても命というものは共通するものだし、その命にまつわる重厚なメッセージをひとつのエンターテインメントとして、物語を通して多くの人々の胸に突き刺さるような作品を生み出すことができたら、それは自分がこれまで目指してきた、世界に通用する表現と成り得るだろうと思った〉からのようだ。「命」に関するメッセージが分かりやすく現れた小説であることは読めばすぐに分かる。伝えたいメッセージや書きたいことがあって書く行為を始める書き方をしないでも、第一四四回芥川賞を受賞した人もいるのだから、テーマやメッセージの選び方、込め方はそれぞれの作家にゆだねられて良いし、その多様性を読む側も受け入れている。ただ、彼が齊藤智裕として物語を書く時に、なぜ自らの体験をモティーフとしなかったのか、と不思議だった。スイス在住時に受けた人種差別の壮絶な体験を介して、彼は人間としての自らの存在意義と向き合ったはずだし、日本に住まうようになってからの言語の壁、絶対的に信頼のおける母国語を得られなかったという精神的な空洞が、あるいは彼を人間存在の真意を暴くような深みへと到達させられるかもしれないのに、それらを振り払ってまで、世に出た最初の作品で「命」をテーマに掲げたことへの違和感はぬぐえない。もちろん妻である絢香の病気(バセドー病)を考えれば、当然手に取るべきテーマだったのかもしれないし、日本における自殺者数が年間約三万人にのぼるという事実も、彼がペンとともに「命」をその手に握りしめることにさせた要因となったとは語られている。しかし彼は「小説を書く」行為について、多くの人々が抱いた「なぜ水嶋ヒロが小説を書くのか」という疑問に答えるように、〈幼いころから特殊な体験をしてきた〉というスイスでのこと、日本語へのコンプレックスのために言葉を大切にしてきたことなどを語った結果、「命」という問題を彼自身から遠ざけてしまっている印象を受けた。

また、海外での体験から、〈世界に通用する〉ことに非常なこだわりを見せているが、世界に通用するために、〈いつまでも語り継がれていくような作品であり、普遍性を持ったメッセージを備えたもの〉として「命」を扱ったのだと語ったことは、「命」というテーマは彼自身の問題ではなく、いかに世界に通用するか、万人に受け入れられるか、といった手段でしかなく、自分の胸元に強く「命」というテーマを引き寄せられていないことを露呈したに過ぎない。

 これは僕の個人的な希望だが、齊藤智裕には「齊藤智裕の物語」を描いてほしい。もしかしたらそれは彼の望むところではないかもしれない。できれば語ることなく、作品に反映させることなく、クリエイティブな活動をしていきたいのかもしれない。しかし、磨きに磨かれ、滑らかに均された彼に魅力はあるだろうか。残念ながら、『KAGEROU』を読む限り、これからも彼の作品を読もう、映画化されたら劇場へ足を運ぼう、レンタルが開始されたら借りよう、という気は起らなかった。『KAGEROU』から決定的に欠けているのは、齊藤智裕の魅力であり、齊藤智裕そのものなのだ。確かに「水嶋ヒロ」という名は既に非常に巨大で、おそらくちょっとやそっとではぬぐえない。あるいは完全に消し去ることなどできないかもしれない。『KAGEROU』は不幸にも、その名前を背負ったために、ポプラ社小説大賞における出来レースの汚名まで加重されてしまったのだ。

 まぁ、しかし、〈世界に通用する映画〉へと至る、いわば過程であるところの小説『KAGEROU』をつかまえて何かを語ろうとする、判断を下そうとすること自体が間違いなのかもしれない。ポプラ社もよく小説大賞を授与したものだと思う。かといって私は映画KAGEROU』について語る気はない。どんな俳優が出ようと、どんな監督がメガホンを取ろうと。そもそも「あらすじ」に対して、ここまで語る必もなかったわけだ。この「あらすじ」から何かへ発展させることが目的であり、完成作として提示されるのは、その何か、なのだから。あとは、その何か、を専門分野にしていらっしゃる方にお任せしたい。ただ、齊藤智裕が齊藤智裕の物語を紡ぐ、その可能性に一縷の望みを託したい。その時におそらく、「小説」と呼んでいいものが生まれるのではないかと思っている。また、どんなジャンルにおいても、「水嶋ヒロ」というキャラクターの一つのエピソードとして吸収されていく作品を、齊藤智裕が自らの胸元へ奪い返した時、そして永久に奪われなくなった時、初めて本物の創作、彼の言葉を借りるなら、〈クリエイティブ〉が果たされるのではないだろうか。




(C) Koutotsu Shinoda 2011




【篠田康突】