過去log 2 続き | 大日如来より真如を届けるBUDDHA卍EMPEROR

大日如来より真如を届けるBUDDHA卍EMPEROR

清朝皇帝 愛新覚羅溥儀と その弟・溥傑と結婚し明治天皇の生母の実家である中山家とも大正天皇の生母の実家である皇室に近い公卿華族である嵯峨浩の次女嫮生の隠し子である私 俗名 岡本浩治がBUDDHA卍EMPERORとして真理を解き明かす。

このような経緯や過去の経験から、私の人生は「普通ではない」と感じ、現象をはじめとした現象世界についても何か不思議な力が働いているのうな気がしていました。

どの様に考えて良いのか分からず「あれ」「これ」と思惟すればする程得体の得れない現象に対して「恐怖」の感情が現れる事に気がつきました。

「恐怖」は認識できますが、「実体」が分からないので余計に「恐怖」が増してしまい辿り着いたのは仏教で読んだ「空」の観想をする事ができる様になっていました。


その後、今日まで現象を起こす「正体」や「実体」は特定する手段は無いのです。

良い様に考えれば「善」に、悪く考えれば「悪」の感情が湧き出てきます。

ですので、「正体や実体」は分からずなので「空」として、「善」となる様な意味付けをする様になりました。

しかし、五感から入る情報や刺激からその判断は簡単に反転してしまうのです。

すると、世界は一瞬で全てが「悪」となってしまうのです。

特に自分の「損得」に関わる様な情報などは無意識に「得」を選んでしまう傾向がある様です。

ですので、この理由づけは世の中が良くなる様な観念をします。

それは、次のとうりです。


世界を一つにする為に起きた「事」であり、それが「善」なのだ...と思える事。


キリスト教は約2000年前に作られました。

しかし、その成立は人間の欲望としての「政治」や「統治」の原理が働いています。

純粋なキリスト教の教えでは無く「皇帝」の権力を保持する為に「偽装」された内容に変斬されたものでした。

権力が「源」であるので権力闘争が生まれ、カトリック、プロテスタント、正教会など多くの異なる教えが広まっていったのです。

さらに、同じ「神」を信じるイスラム教やユダヤ教との争いは古い時代から起きていました。

この現象はキリスト教の世俗化が資本主義と結びついて起きていたと解釈しました。

しかし、私には、この約2000年間の世界に「神」が存在したとは考えられないのです。

私には、この「唯一神教」の人々が争いの歴史を鑑みて穏やかに暮らせる宗教として仏教と日本神道の習合した「和」の宗教こそが人類にとって一番良いと考えたと解釈しています。


日本の「神仏習合」は、幾度かの対立を経て長い歴史の中で調和し合い「和」をなしています。この状態には、「儒教」や「道教」などの影響も含まれていて東洋宗教哲学のエッセンスが凝縮されているのだと思います。


ネパールのルンビニで発祥しインドの宗教の影響を受けつつシルクロードでガンダーラ方面と東南アジア方面に分かれてそれぞれ独自に発展して行ったと記憶しています。


日本へはガンダーラ方面へ向かい「中国」へ経緯し「朝鮮半島」へ渡り「日本」へ来ました。これを「大乗仏教」と言い、己の解脱や悟りよりも利他を通じて他者の救済を目的とした教えです。また、ヒンドゥー教の影響を受け密教化した秘密仏教を「密教」と呼び「顕教」の2種類が生まれてそれぞれが日本へ伝わってきました。

この「顕教」と「密教」はそれぞれの特色を生かして今に至ります。


この様にその地に和合し様々な影響を受けて進化した宗教とも言えると思います。

和合し進化出来たのは大乗の「利他」の精神があったからだとも思えます。


この「利他」は、「慈悲」の感情を行動に表した言葉だと思います。

「慈悲」の感情は、「智慧」を持って育むことで無限に大きくなると感じます。

また、全ての命ある衆生には「慈悲」は備わっていて「仏性」と呼ばれています。


「利他」は、「和」を生みます。

「奉仕」とは思いを発する動機が違う様に思います。

「仕い奉る」(つかいたてまつる)とも意味が取れますが、そこには慈しむ心「慈悲」が無いのでは無いかと思います。この感じからは「主従」の関係が伺えます。


私は、今までの半生を自分の為に生きて来て後悔と反省の思いから人の為に何かしたい...という感情が高まり現在に至ります。


人生の半分以上「苦」を常に感じとてもつらい思いを経験しました。

「苦」には、様々種類がありますが私は、「煩悩」という欲が原因の「苦」に苦しみました。

「執着」から生まれる「煩悩」は、「執着」から離れることで収まる事を知りましたが実践が難しく客観的に自分の心を観察して出来るだけ「とらわれない様」に物事の見方や考え方などを多面的にする事が良い様に思います。


今現在の私の心の状態に於いてもこの「執着」に対して考えが凝り固まっていないか?を自問自答しています。


苦しんでいる人の気持ちが良くわかるので自分に何か出来ないか?という気持ちが生まれ行動した時に「執着」がなくなり「煩悩」も次第になくなり、いつの間にか「苦しみ」が消えていた...という経験をしてから「利他」には不思議な作用があるのだと感じてから「利他」を大切に思う様になり、「利他」をするには他者へ関心を寄せる心がけが大切だと感じできる限り努力しています。


私は、「利他」を知ってから人生が大きく変わりました。それまで虚無な心が暖かさで満たされる様な感覚と共に「執着」「煩悩」「苦」が消えて、生きることが「楽」になって行きました。


また、同じ行動でも、することで他を苦から助けることができると思えた時はどんなことでもやり遂げれた様に思います。


行動の「因」がなるべく「他」である方を選べる様に心を整えておくことが大切だと今、思いました。


この「利他」をするまでは、他者からしてもらうことが当たり前の様に思え「感謝」することも出来ずにいました。



ここまで「利他」について色々と書きました。

書いていて色々自分に自問自答することが多いことに気がつきました。


行動の動機がここ数日いや常に固定化されていないのに気がつきました。

現象にとらわれて世界観が大きく揺れ動くのです。

すごく執着している自分がいます。

冷静さを欠いたり。


自分の中で争いが起きている感じです。


また、理(仏法)の事(しごと)には、


切っ掛けとなる出来事(できごと)が起きて行為(おこない)をするにあたって


私は、8回精を放ち八正道(八聖道)一切の衆生を滅度した。

  

事事とは自他のことを言う


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