釈尊から「ブッダ」へ | ブッダに学ぶ ブログ

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困ったときには、ブッダの話を聞きに行こう。

これまでの記事で、何度も釈尊と書いてきましたが、これから「ブッダ」と書いていきます。というか、過去記事も釈尊からブッダに変更しています。

また、ここで、このブログ上においてのブッダの定義を、書いておきたいと思います。

ブッダとは、覚りを開いた人、つまり、阿羅漢になった人をいいます。ま、大乗仏教というのが出来てきて、大乗では覚った人はいないのではないか?という、学者もいますが、おそらくいたとは考えられます。経典は文献に書かれていないから、いないというのは早計だと考えます。ま、「大乗仏教の考え方では」という、脈絡からの、推測が成り立たないわけでもないですが・・・。

また、日本で「釈尊」呼ばれている、ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)のことは、ゴータマ・ブッダと、分けて書くようにしたいと思います。

なぜ、釈尊からブッダに変更したのかと言えば、ブッダと書く方が、広い意味でとらえやすいと、考えたからです。

ティク・ナット・ハンが、著作『法華経の省察―行動の扉をひらく』でかいていますが

(引用ここから)

大乗の大きくて包容力のある乗り物のあいだの美しい若いのありさまを見事に表している。二つの伝統は(引用者註:小乗と大乗)、一切の衆生を解脱の岸へと運ぶ一つの乗り物(「一乗」)として統一されたのだ。

(引用ここまで) P.19

ま、小乗がよい、大乗がよい、小乗が悪い、大乗が悪いとかという、「断見」してみるのではなく、もう少し、広く見れば、いろいろ、見えて来るところがあります。ま、確かに、細かく観ていけば、どちらも突っ込みどころ満載なんです。それは、この世には「無矛盾」が無いことが、わかってきたからこそ、いえることではないかと思いますが・・・。

法華経の省察―行動の扉をひらく』の、内容はともかく、「一乗」という、言葉はとても良いなと思いました。大乗が一つの乗り物として発展したとは思わないというか、そもそも、ブッダは、もともと、そうなのではないかと、私的には思います。

経典を含め、偉大なる比丘の話を聞いて(読んで)いますと、いつもながら気がつくことが多い。ただ、「ゴータマ・ブッダの言葉」に拘りすぎると、本質を見誤ります。何せ、経典(パーリー経典の三蔵)には約六割も、不必要なものが含まれていると言われていますし、大乗経典にしても、大いなる方便ととらえれば、見え方も変わってきますよね。(※行き過ぎも、確かにありますが・・・)

「ゴータマ・ブッダの言葉」に拘に拘らず、覚った人達「ブッダ」の言葉として、観ていけば、「ダンマ」が、見えやすいのではないかと、考えています。

まだ、書き始めたばかりであるのに、書き直しを迫られるような事態が日常茶飯事で、ブログを書いていくのも、結構大変です。(汗)

毎日、いや、一瞬一瞬に、出来る限りサティを入れていくと、いろいろ、見えてくることがあります。

仏像・Buddha statue03


法華経の省察―行動の扉をひらく