慈悲の瞑想 | ブッダに学ぶ ブログ

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困ったときには、ブッダの話を聞きに行こう。

上座部(テーラワーダ)に、慈悲の瞑想というものがあります。

(引用ここから)

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私は幸せでありますように(3回)

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々が幸せでありますように(3回)

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように


私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように


生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)


(引用ここまで) 

お釈迦様は、呪文は唱えることはないと、おっしゃいました。念仏を唱えることは無いとも。

この慈悲の瞑想、一般の我々が、読んでいますと、念仏のように見えます。また、主体が、対象物(客体)に働きかけるような、感じを受けますが、これは大きな間違いです。

瞑想実践されない方にはわかりません。確かに念仏として、何も考えずに唱えても何の意味もありませんが、真に目の前にその客体をイメージし、本当に心の底からそう願って、唱えてみてください。

実際、姿勢を正して坐し、呼吸を整えて、客体(相手)をあたかも目の前にいるかのように置いて、心の中でよいので唱えてみてください。

そうすると、その効果に驚きます。

これは、実際には、客体に働きかけるものでは無く、主体である自分自身に強力に働きかけるものだと気がつきます。

また、実際に、目の前にその対象の人がいるときに、この瞑想を心の中で唱えてみてください。

例えば好きな人が目の前にいれば、

「私の好きな人が幸せでありますように
好きな人の悩み苦しみがなくなりますように
好きな人の願いごとが叶えられますように
好きな人が幸せでありますように(3回)」


と、唱えてみてください。とても強力に「慈悲心」が沸いてきます。

とても好きな人に対して「慈悲心」は初めからあると、普段私達は考えがちですが、本当にそうでしょうか?例えば、全くけんかのない、パートナー関係は、ほとんど聞きません。私達はついつい、自分の意見を通そうとばかりしたりしていませんか?

どなたか忘れました(たぶん、ティク・ナット・ハンだと記憶しています)が、「慈悲心」とは、自分をとても深く理解することであり、また、相手をとても深く理解すること。とおっしゃった方がいましたが、まさにそうでしょう。

普段私達は、何か、相手に言いたいことがあったとしても、まずは、相手の話を聞く。そして、「慈悲心」において判断し、行動することをしているでしょうか。むしろ、とても近いパートナーに対して、自分の意見を通すことばかりに気がいっていませんか?と考えさせられます。

この慈悲の瞑想は、私達にとってとても良い「間」を作ってくれます。そして、その「間」は、冷静に自分の心の観察をする「間」ともなります。そうすれば、情動に支配された心の暴走を食い止める力があることにも気がつくことでしょう。



また、初めは抵抗があるかも知れませんが、嫌いな人、自分のことを嫌っているだろうなと思う人を目の前にしたときに

「私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように」


または、

「私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように」


と、唱えてみてください。

すると、不思議に、例えばすぐに「怒り」や「憎しみ」「妬み」等の感情が出ていたものが、少し和らいでいることに気がつくでしょう。この場合もとても良い「間」を与えてくれます。

私達は、自分を変えようとするのではなく、外の世界を変えようとします。それは、ブッダからすれば、明らかに間違いで、自分を変えましょうということです。

つまり、この慈悲の瞑想は、自分を護ることに、とても有効に働く作用があるということです。

「ダンマパダ」「ウダーナ」他、多数の経典を読んでいますと、ブッダは、何度も、自分を護りましょう。と、おっしゃいています。一例を挙げれば、

(引用ここから)

もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己をまもるべきである。--辺境にある、城壁に囲まれた都市が堅固に奥深く濠をめぐらされているように。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておる、べきである。15

もしも自分を愛しいものだと知るならば、よく心がけて自己を守るべきである。--辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も堅固に守られているように、16

そのように自己を守れ、汝らは瞬時も空しく過すな。時を空しく過した人々は、地獄に堕ちて悲しむ。17

どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。18


(引用ここまで)ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫) P.179


もひとつ、実は、この慈悲の瞑想は、きれい事だけではありません。慈悲の瞑想は仏教系瞑想で言えば、サマタ瞑想に位置づけられます。つまり、「止観」でいえば、「止」にあたる瞑想です。そして、この慈悲の瞑想は「観」の瞑想、ヴィパッサナー瞑想に、とても有効に働くというか、必須の役割があります。

実は、このことをしっかりと気がついていないと、瞑想における禅定の階梯を登っていくことが出来ません。そのあたりは、また、別のページで書きたいと思います。






ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)