ブッダに学ぶ ブログ

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困ったときには、ブッダの話を聞きに行こう。

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この日本では、後述するつもりであるが、特異まれなる形で、仏教が「発展」してきました。

実のところ「発展」なのか「衰退」と取るのかは、紙一重というか、裏表というかですが。

仏教を一言でまとめることは、現在において、不可能であろうと思います。それこそ、出家修行僧、在家の信者、学者、興味のある人、無い人、他宗教を信じている人、地域や国民性などでは、もちろん、それぞれ、違うのは当然だと考えられます。

ま、その内容とししても、考察するべき所も多岐にわたる。


ま、世界的にみて、この日本程、ブッダとかけ離れてしまった、仏教もある意味おもしろいところでもある。

日本の仏教では「仏(ぶつ)」と書く。ま、世界的に見れば「ブッダ」という意味であるはずなのでしょうが、そもそも、日本人は「ブッダ」を全く知らない。それよりも「仏=ほとけ」と思っている人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

また「仏(ほとけ)」とは、日本人感覚としては、死んだ人であり、基本的には「ブッダ」と何の関係もないことすら知らない。

ある、仏教の入門書での、密教に関する解説の場所で次のような文言がありました。

(引用ここから)

生身の身体のまま仏になる=「即身成仏」を目指す。

(引用ここまで)

この、解説文のおかしさは、それなりに、仏教を理解し、実践している人にはわかるかもしれない。(実践していてもわからない人はわからないでのはあるが)

まず、「仏(ブッダ)」と理解しているか、「仏(ほとけ)」と理解しているかで、全く異なるのは、ご理解いただけるかもしれない。

ブッダとは、さとりの境地に達した人であり、死んだ人ではない。ま、基本的に、死んだひとが覚ることなどありえないわけだが・・・。

また、「目指す」とは、全くのミスリードでしかない。いやいや、慧の境地を目指すのではあるが、いま、即、「ブッダ」になる。もしくは、なっていますよという意味であり、目指すものではありません。目指すものは、さとりであり、「即身成仏」を目指してどうなるのだろう?という、全く本末転倒の解説ですね。

このようなことが、一般的に流布されていて、疑問に感じない人がほとんどである、現状は憂いべきことだなぁ~と、思っています。

そうした人達が、大乗教典限らず、初期教典を読んでも、全く本来の意味を理解出来ない、また、がかみ合わないのは当然でしょう。前提条件がそもそも違うということです。

かくいう、「心身」も、同じでしたけれど。

そもそも、仏教とは「ブッダの教え」という所から始まる事すら知らなくては、仏教の本質が見えてこないのは当然の帰結だと考えます。

たとえ、大乗教典であろうと、まず「ブッダの教え」というものを、ある程度抑えていれば、いかに、初期仏教から、大乗仏教に変化し、場所を変えながら、伝わってきたのかなどもとらえることは出来ない。

そうなってしまうと。そもそも、何のために「仏教」があるのかすらも、見えて来ないのではないかと思います。

しかし、そこが見えてくれば、この、日本の仏教が「特異まれなる発展」というのも、見えてくるのではないかとも、思います。


仏像・Buddha statue06
これまでの記事で、何度も釈尊と書いてきましたが、これから「ブッダ」と書いていきます。というか、過去記事も釈尊からブッダに変更しています。

また、ここで、このブログ上においてのブッダの定義を、書いておきたいと思います。

ブッダとは、覚りを開いた人、つまり、阿羅漢になった人をいいます。ま、大乗仏教というのが出来てきて、大乗では覚った人はいないのではないか?という、学者もいますが、おそらくいたとは考えられます。経典は文献に書かれていないから、いないというのは早計だと考えます。ま、「大乗仏教の考え方では」という、脈絡からの、推測が成り立たないわけでもないですが・・・。

また、日本で「釈尊」呼ばれている、ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)のことは、ゴータマ・ブッダと、分けて書くようにしたいと思います。

なぜ、釈尊からブッダに変更したのかと言えば、ブッダと書く方が、広い意味でとらえやすいと、考えたからです。

ティク・ナット・ハンが、著作『法華経の省察―行動の扉をひらく』でかいていますが

(引用ここから)

大乗の大きくて包容力のある乗り物のあいだの美しい若いのありさまを見事に表している。二つの伝統は(引用者註:小乗と大乗)、一切の衆生を解脱の岸へと運ぶ一つの乗り物(「一乗」)として統一されたのだ。

(引用ここまで) P.19

ま、小乗がよい、大乗がよい、小乗が悪い、大乗が悪いとかという、「断見」してみるのではなく、もう少し、広く見れば、いろいろ、見えて来るところがあります。ま、確かに、細かく観ていけば、どちらも突っ込みどころ満載なんです。それは、この世には「無矛盾」が無いことが、わかってきたからこそ、いえることではないかと思いますが・・・。

法華経の省察―行動の扉をひらく』の、内容はともかく、「一乗」という、言葉はとても良いなと思いました。大乗が一つの乗り物として発展したとは思わないというか、そもそも、ブッダは、もともと、そうなのではないかと、私的には思います。

経典を含め、偉大なる比丘の話を聞いて(読んで)いますと、いつもながら気がつくことが多い。ただ、「ゴータマ・ブッダの言葉」に拘りすぎると、本質を見誤ります。何せ、経典(パーリー経典の三蔵)には約六割も、不必要なものが含まれていると言われていますし、大乗経典にしても、大いなる方便ととらえれば、見え方も変わってきますよね。(※行き過ぎも、確かにありますが・・・)

「ゴータマ・ブッダの言葉」に拘に拘らず、覚った人達「ブッダ」の言葉として、観ていけば、「ダンマ」が、見えやすいのではないかと、考えています。

まだ、書き始めたばかりであるのに、書き直しを迫られるような事態が日常茶飯事で、ブログを書いていくのも、結構大変です。(汗)

毎日、いや、一瞬一瞬に、出来る限りサティを入れていくと、いろいろ、見えてくることがあります。

仏像・Buddha statue03


法華経の省察―行動の扉をひらく



当サイトでは、実は本当は、「宗教」の話はしたくはないのですが、どうしても「宗教」の話は避けることは出来ませんね。

「え?仏教って宗教じゃないの?」といわれれば、確かに「宗教」です。といわなければなりません。(汗)

ブッダ(仏)の教えを略して⇒「仏教!」というわけには、いかないようです。^^;

世界的にも世界三大宗教の一つとされていますし、日本でも宗教法人として、認められていますので、法的にも宗教という枠組みになるでしょう。

しかし、ここではっきり言っておきますが、当サイトでは、ブッダの教えと、仏教は別ものとして、ほぼ扱うことにするつもりです(絶対とはいえませんが・・・)。

そもそも、ゴータマ・ブッダ自身は「自分が仏教という宗教を始めるぞ!」といった自覚など全くなかったものと考えています。確かに、バラモン教の修行から学ばれたこともありますし、バラモン教を含めた六師外道(宗教家や思想家)の弟子達との問答もあったようなので、全く宗教外の話とは考えにくい。

しかし、ブッダは何一つ信じることを強要しません。むしろ、自分で確かめなさいと、ブッダはおっしゃいます。

ブッダの教えにはドクマ(宗教・宗派における教義)はありません。とても珍しいことです。

ブッダは有名な「筏の喩え」で次のようにいいます。(とても長いので、要約を引用します)

(引用ここから)

また、「筏の喩え」をもって、たとえ法であっても執着すべきででないことを説かれる。すなわち、筏は、向こう岸に無事に渡れればその目的が果たされたものとなり、それ以後は担いで持ち運ばれるものでは無く、そこに置いておくべきものである。そのようにすぐれた法も執着されるべきものではない。ましてや悪法についてはなおさらである。

(引用ここまで) 中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇1 (パーリ仏典)  P.29~ P.30

考えてみれば、とてもすごいことですよね。私達凡夫でさえ自分の考えにたいして、絶対だと思いがちであるのに、悟りの境地に達すれば、さっさとその教えすら捨ててしまえというのですから。他の宗教ではこのようなことは見ること、聞くことはありません。

また、ブッダがいないときに、他の比丘達から話を聞いたときには、法(ダンマ)が正しいかどうかをどのように判断すればよいかも、いくつかの経典に残されています。

K?l?ma sutta(カーラーマスッタ,AN 3.65 PTS: A i 188)、Gotami Sutta(ゴータミースッタ,AN 8.53 PTS: A iv 280)などは、特に有名です。

Gotami Sutta(ゴータミースッタ)の一例を、簡略してあげれば

1.欲が減る、もしくは無くなる
2.束縛が減る、もしくは無くなる
3.脱落することが無く、蓄積に繋がる
4.自己顕示欲や、野望がない
5.足るを知る
6.静寂
7.怠け者にならない、正精進につながる
8.苦しみに繋がらない


信じることを強要する、宗教家ってありえませんよね。宗教家でなくても、信じることを強要する人など、大量にいるよのなかなのに、本当にすごいです。

人や、世の中に騙されない教えとも、受け取る事も出来るので、心にとめておきたいものですね。



中部(マッジマニカーヤ)根本五十経篇1 (パーリ仏典)



「筏の喩え」は下記、原始仏典にももちろんあります。

原始仏典〈第4巻〉中部経典1