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1197年9月、崔忠献兄弟はついに明 宗を追放し、明宗の弟を新しい王に迎えた。

これが20代王の神宗(在位1197-1204)だが、やはり操り人形状態の政権だった。

6年という短い在位期間だった。

 

崔忠献が権力を握り国を好きなようにし放題にしていたからだ。

そして、全国で、反乱と蜂起が止まなかった。

崔忠献兄弟から李義咬を亡き者にしたという報告を受けた王は、恐しさに震えた。
崔忠献兄弟は、李義咬に従っていた者をすべて殺した。

高麗時代最悪の時期と言われた。

 

神宗は1144年7月、仁宗の5番目の息子として生まれた。

1197年9月で54歳で王になった。

 

突然神宗が王位に上がることになったのは崔忠献の無理な判断からだった。

崔忠献兄弟の位はだんだん上がり、周囲の部下たちも高い兵の位に上げ、権力を手にした。

 

崔忠献勢力は一時、封事十條(봉사10조)を掲げ、政治を改革しようという姿勢を見せたが、口だけで終わった。

封事十條は、土地管理と人材の登用についての改革案が含まれていたが崔忠献自身が守っていない始末だった。

★奉仕十条(封)は1196年(明宗26)に武人執政者チェ·チュンホンが政変の正当性および政策方向を込めて国王に上げた時務策。

崔忠献が李義民を排除して政権を掌握した後、土地、租税、官職者、郷吏などと関連して10項目の廃政改革案を提示したもので、政変の正当化および今後の政策方向を明らかにしたという点で、武臣政権を理解するのに非常に重要な資料。

 

操り人形の神宗を王に立てた彼らは、王より強い権力を振り回した。 

ところが、しばらくして崔兄弟同士で争うことになった。


崔忠献の弟の崔忠粋は、野心家。
<兄よりも大きな権力を手にすることはできないものか>
こんな考えをしていた崔忠粋は、太子妃を強制的に追放し、自分の娘を新しい太子妃として輿入れさせようとした。

王室と手を握り、権勢を思うままに振り回そうと考えたのだ。

後にこの事実を知った崔忠献は無火のごとく怒り、弟を呼ぶ。
「追い出した太子妃をすぐに連れてこい!」
しかし、崔忠粋は聞く耳を持たず。

崔忠粋は娘を前面に出して権力を強化しようとする弟に言いました。

 「私たちが権力を握ってはいるが、名門家ではない。 

もし君の娘を太子妃にしたら、世間の人たちはあざ笑うだろう。 

しかも、今の太子妃を追い出すことは正しくない行動だ」

もっともらしい言葉でしたが、実は崔忠粋の勢力がさらに大きくなるのを防ぐために脅迫することでした。

 しかし、崔忠粋が言うことを聞かないと、崔忠献は表に出して弟を押さえ始めました。 

「まだ正気ではないんだな! 仕方ない。 崔忠粋の娘が宮殿に入れないように防げ!」

 

この知らせに崔忠粋は怒り心頭に来ました。

 「どうしても兄とその群れをなくさなければならない!」

この言葉はすぐに崔忠献の耳に入りました。 

結局、開京は崔氏兄弟の戦いで血なまぐさい戦場となりました。

 

1197年こうして二人の兄弟の間で争いが起こりました。

争いは、兄の崔忠献の勝利に終わりました。
「たとえ、我が弟ではあっても、権力を頼んで狼藉を働く者は容赦しない。すぐにそいつの首をはねろ!」

 結果は崔忠献軍師の勝利でした。 崔忠粋はしばらく持ちこたえたが逃げ

その後を追った崔忠献の部下によって殺されました。

 

崔忠献も権力に対する欲が他の人に劣りませんでした。
今や、高麗の朝廷では誰もが崔忠献の言葉を恐れ、彼に逆らう者はいなくなりました。

崔忠献は不満の多い武臣たちを追い出し、文臣たちを朝廷に招き入れました。

すると、武臣たちはあちこちで不満を爆発させました。

「崔忠献を殺してしまえ」という噂まで飛び交った。


崔忠献は、慶大升がしたように、自分も都房を設け、訓練の行きとどいた軍隊を使って、昼夜見張らせる「都房政治」をした。

そうして崔忠献は都房で寝起きし、国事を処理しました。

大臣たちも王宮に行かず、崔忠献に会いに都房に集まりました。

慶大升が都房を初めて設けたが、それは私兵だった。

神宗3年の1200年に、崔忠献も自分の身辺を守るために都房を設置した。

 

崔氏武臣政権は60年間続きました

 

★ 朴晉材 パク·ジンジェ

数百人の門客を従えて崔忠献と協力したが、崔忠献が政権を掌握した後、自身の門客の中で官職を得た人が少なく不満を抱くようになった。

1201年(神宗4)には朴晉材が崔忠献をなくそうとしているという匿名書が出て二人の間の不和が始まった。
その後、1203年に尚書優勝(尙)になり、再び大将軍になったが、1207年に崔忠献によって白翎鎮に流され、そこで亡くなった。

母方の甥である朴晉材 の勢力が次第に大きくなると、彼を呼び、両足の筋を切って人里離れたところに流刑を送りました。

 「いくら権力が良いとはいえ、弟を殺して母方の甥を流刑にするなんて···」

「兄弟と親戚に刀を向ける者が国を治めるなんて、ありえない。」

民が何と言おうと崔忠献はついに最高官職である門下侍中まで上がった。