高麗では貴族や金持ちが、多くの奴婢を従えていました。
奴婢は主人のために動物のように働いても、人間扱いを受けることができなかった。
明宗の権勢を一手に握っていた崔忠献の家に、万積(マンジョク)という利口な奴婢がいた。
高麗時代は、奴典の制度がとても厳しく、奴興の子どもとして生まれると、代を継いで奴婢にならねばならなかった。
奴婢の文書があり、売り買いも行われました。
あるいは「部曲」と言って、卑しい身分の人ばかりが住む村が定められていました。
このような時に、万積が自由を叫び国中の奴婢たちが騒ぎ出した。
開京に住んでいる奴嫌たちは山へ柴刈りに行くという口実で集まり、武術の訓練をした。
神宗が即位した1197年、奴牌の万積は同僚の集った場所で反乱を計画した。
彼らは4日後、興国寺に集まり、実行することにした。
興国寺には胸に黄色い丁の札をつけた奴典たちが一人二人と集まった。
万積は気を引き締め、彼らを一か所に集めたが、100名余りだったため
後日、出直すことにした。
ところが、裏切り者が出た。
主人に事の次第を打ち明け、褒美でも貰うほうがいいので少し気の弱い順貞(スンジヨン)という奴婢が自分の主人に事の次第を告げ口した。
途方もない話を聞いた主人は、すぐ崔忠献のところに駆けつけ、順貞の話を報告した。
自由の身になろうとした奴婢たちは、殺されてしまった。
これを「万積の乱」と言う。
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1198年の万積の乱は失敗したが、歴史上で初めての奴婢の解放運動として大きな意義があるとされる。
「万積の乱」は、奴碑が自ら自由を求めて起こした解放運動である。
しかしこの運動は、裏切り者が出て、それをはじめる前に失敗したのだ。
1199年には現在の江陵であるミョンジュで蜂起が起き、三陟と蔚珍が陥落した。
1200年神宗3年には慶尚北道晋州でも反乱が起き富豪の家を焼き、官荷(使用)の獄を潰された。
慶州でも大きな反乱が起こり、彼らは新羅を復興しようとし、嶺南(慶尚道)一帯を揺り動かした。
慶州の反乱は、朝廷が鄭彦信将軍を送って1年後にやっと鎮圧した。この時、東京(今の慶尚北道慶州)でも民が立ち上がり、溟州の民と力を合わせて州軍を略奪した。
これに対し政府は、郎将·呉応夫、車函合聞之候·宋公爵を溟州道に、薪所監·趙通·郎将·韓紙を東京に送り、これを草霧(招撫)させた。
同年3月、東経籍の怪獣キム·スン(金順)、蔚珍籍の怪獣クム·チョ(今草)などが来て降伏すると、王はジュシク(酒食)と衣服を与えて送り返した。
武臣政権が成立した後、全国的に民乱が起き、溟州の民乱が起きた新宗初期には開城の佐野万積の乱、晋州里の鄭方義の乱など2、3年間で7、8件の大小の奴婢の集団の反乱が起こった。
その時、朝廷では力で押さえつけるか、その頭目に官職を与えてなだめるなどして、騒ぎを収めた。
万積の乱により、勇気を得た奴婢たちは、国内の各地で自由を叫び、燎原の火のように広がった。
1204年4月には晋州で蜂起が起こり、同月密城(現在の密陽)では官庁の奴婢50人余りが雲門(現在の清道)で起きた蜂起軍と連合して大きな勢力を上げた。
これに伴い、政府では主食と衣服を与えて送り返したということから見て、彼らを武力で抑圧するよりはできるだけ懐柔しようと努力したことがわかる。
武臣政権の横暴に対抗した蜂起と民乱を通じて、当時の時代的特徴を知ることができる。
第一に、民族を統合して統一国家になった高麗の正統性と名分さえ脅かされるほど、武臣政権に対する民衆の不満が高かったということです。
第二に、農民や奴婢など低い身分の人物が蜂起を指揮するほど、民の力が大きくなりました。
第三に、マンイとマンソイ蜂起だけでなく、マンジョクの蜂起からも分かるように、高麗の身分秩序を崩そうとする動きが広がりました。 これに対し、神宗は蜂起軍をなだめ、囚人たちを解放して民心を得ようとしましたが、民乱と蜂起は収まりませんでした。 それだけ民の心が遠くなったのです。


