ようやく高麗に平和が訪れた。
顕 宗は長い間、契丹軍との戦い疲れた民のために
顕宗は官職にある者や一般の人々から食べ残りの穀物を集め、義倉という倉庫に保管させた。
義倉に保管された穀物は、凶年や国に災いのあった時に人々に等しく分け与えました。
最近で言う、備蓄米とか古古米とかとかですかね。
これを「義倉収斂法」と言います。
契丹との戦いで亡くなった兵士の家族に土地を与えた。
この土地を「口分田」と言った。
姜邯賛将軍が国王に平和な時にこそ、契丹の侵略に備えねばならない、と提案。
開京の外に堅固な城壁
참조
そして鴨緑江付近の国境にも、千里(日本の百里)の長城を築いて国防を強固に築いた。

この長城は次の王である徳宗( 在 位 1031-1034) まで続いた。
頭宗は国の力を強める一方で、隣国との和親も活発に行った。
特に、遼とも使臣が行き来した。
これは、外交をうまく行うことにより、オランケに高麗を窺うことができないよう事前にくい止めるためだった。
この頃、遼から『龍龕手鏡(りゅうがんてかがみ)』という漢字の字典を入手した。
仏教の経典を研究に大変に役立つ字典『龍龕手鏡』によって、
高麗の仏教の研究が活発になった。
碧瀾渡(ぴょんらんど)を経由する貿易が活発になり、
本や紙なども入ってきて、高麗の文化を豊かになっていったが、
貴族は、金や銀を出す代わりに、絹、酒、香料などを手に入れた。
顕宗は仏教の力を借りて、揺れ動く人々の心を一点に集めようと考え、
仏教の経典を木版に刻んだ大蔵経を作ることにした。
この作業はとても時間がかかりました。事業をはじめてから77年後の宣宗(在位1083-1094)4年にやっと完成。
このようにして作られた大蔵経を『初祖大蔵経』または、『初板古本大蔵経』と言う。
昔の国王は死にに行かなかった大蔵経を判然として退きました · 顕宗2年(1011)にそちらに避難しましたが、契丹です 顕宗は臣下として完成することにした-東国李相国集蘭州が大きく軍を起こして高麗に侵入すると、軍はむしろ松岳城に駐屯した後、彼らと共にこの上ない大きな書院を建てました·すると、契丹軍師は自ら「権251大蔵経」、「大蔵閣版軍神記」、「古文国難克服-八万大蔵経」
· 高麗大蔵経とは?
大蔵経は釈迦の言葉を記録し、広く伝播させることを目的に刊行した仏教の大経典である。
大経典という言葉は「三つの籠」という意味を持っている。 すなわち、仏の言葉を盛り込んだ経、仏の教えに従う人々が守らなければならない道理を盛り込んだ律(律)、そして仏の教えを研究しておいた論だが、この3つの大きな籠を合わせて大蔵経と呼ぶ
· 我が国の大蔵経板造成の歴史
初祖大蔵経·最初の大蔵経板造成時期:高麗1011年(顕宗2年)から1029年(顕宗20年)までの18年間、造成·初祖高麗大蔵経は主に北宋の観板大蔵経を土台に造成·大邱八公山婦人寺に奉安したが、1232年モンゴル軍の侵入により消失した初祖大蔵経の補完及び高麗続蔵経·高麗速蔵経·高麗は初祖高麗大蔵経に満足せず、完璧で主体的な大蔵経造成の試み·文宗の時にしていた。 大覚天皇、 要(遼)国と日本まで経典調査収集·新編制宗教長総録出版-いわゆる高麗続蔵経と呼ばれるが、今は北方以外の兵火により焼失、国内および日本などに残っている影印本を通じてその卓越した創造的内容を知ることができるだけだ
伏せて願いたいのですが、多くの仏様が切に祈ることを察して神通な力を祈ってくれて、完悪なモンゴルに遠く逃げて二度と我が国の国土を踏むことがないようにして戦争が終わり、中外が安らかで、無強な数を享受し、国の国人が万歳で維持できるようにしてくだされば、弟子たちは当然努力して法文を保護し、仏様の恩恵を万分の一でも返そうとします 李奎報、『大蔵閣版群新記稿文』八万大蔵経板を刻んだ事実を記録しているこの発願文は、仏の力を借りて外敵の侵略に対処し、民心を収拾しようとする念願を込めた文だ。 大蔵経を製作する前に、仏様とすべての天神に王と臣下および民が覚悟を決めて実践するための意志を込めた。
製作過程の絵
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崔沆という学問と徳の高い臣下が高麗の発展に大きく寄与した。
彼は新羅人の後裔。
崔沆は、成宗代に科挙文科に壮元及第(首席合格)し、内史舎人という官位にのぼった。
穆宗12年には国王を追放しようとした金致陽の一味の陰謀をくい止め、
当時王だった穆宗の腹違いの弟、大良院君を顕宗として即位させた。
顕宗は崔沆に、度々の闘いで、国の族譜すらすべて燃えてなくなっってしまったことで
先祖に対するこの上ない不忠であり、次代の者にも頭をあげられない恥であるといい・・
崔沆に太祖王建から第7代の穆宗代までの歴史を記録させた。
顕宗はまた、30年以上も中断されていた八関会も再び開くようにした。
八関会とは、官職にあるものと、民が一か所に集まって歌を歌い舞いを舞いながら、国と王室の太平を祈る祭。
八関会は毎年、中京(開京に同じ、現在の開城)と西京(平壌)で開かれたが、中京では陰暦11月、西京では10月にそれぞれ開かれました。この日は、夜の闇を松明で明るくして、人々に酒、お茶、果物の類を分け与えた。
崔沆は、内史侍郎平章事という官位にありましたが、老年のために退いた。
この頃、彼の家はろくに食事ができないくらい、貧しい暮らし向きだった。
それくらい彼は、倹約家な臣下だった。
崔沆が世を去ると、顕 宗は彼の死を悲しみ、多くの下賜品を与えました。
しかし、崔沆の息子、崔有孚は下賜品を辞退し、最後まで受けとらなかった。
「父はつねづね、私的に国の財物を使うことは臣下である者の道理ではないと言っておりました。
私も父の意志に従うようにさせてください」
顕宗は彼の心がけがあまりにも立派だったので、高い官位を与えようとしたが、
崔有孚はそれをも受け入れなかった。
その後、崔有孚は父の高潔な意志を受け継ぎ、学者としてりっぱに一生を終えた。
崔沆の墓경기도 광주시 퇴촌면 도마리 산11-1번지






