[Why] 消えた三別抄、沖縄に渡って琉球王国を建てたのか?
1273年に済州島で敗走した一部勢力の沖縄へ航海当時、船で早ければ3日かかる
大帝国モンゴルの馬蹄が高麗を踏みにじった13世紀最後まで対モンゴル抗争を行った軍事集団が三別抄だった。 崔氏政権の私兵だった三別抄は、王室が江華島から開京に戻った年の1270年(元宗11)、承和後(承)、王温(王溫)を新しい王に推戴し、ペ·ジュンソン(裵仲孫)の指揮の下で抵抗を始めた。
三別抄は1271年5月、麗蒙連合軍の攻撃で根拠地だった珍島が陥落すると、キム·トンジョン(金通精)を中心に済州島に移り、ここから今の京畿道富川まで攻撃しながら死闘を繰り広げた。 1273年4月、戦線160隻に乗った連合軍が圧倒的な軍事力で済州島を猛攻した。 金通正は自決し、残りの1300人は捕虜になった。 これまでの歴史は、そこで彼らが滅亡したと見ている。
果たして捕虜以外の人々は残らず全滅したのだろうか? もし生き残った三別抄勢力の一部が、胸に恨(恨)を抱いたまま水平線の向こうの南側に行っていたとすれば、彼らが到着したところはどこだっただろうか。 済州島の南に700-800キロ離れており、後日洪吉童が渡って建てたという「栗島国」がまさにそこだったという話も伝えられる島、沖縄(沖繩)ではなかっただろうか。
ところが、これが想像の中の話ではない状況になった。 学界で本当にそのような主張が提起されたのだ。 公州(コンジュ)大学歴史学科の尹容赫(ユン·ヨンヒョク)教授は20日に開かれた韓国中世史学会主催の学術大会で論文「沖縄の高麗瓦と三別抄」を発表した。 沖縄本島南方の浦添城などから出土した瓦が1273年高麗三別抄勢力によって作られた可能性が高いという内容だ。
その「瓦」の存在が本格的に注目されるようになったのは2007年6月である。 「耽羅と遺構(琉球·琉球)王国」特別展を準備していた国立済州博物館のミン·ビョンチャン学芸室長(現国立中央博物館学芸研究官)らは沖縄から借りてきた13~14世紀の「軒丸瓦」がこの博物館が所蔵している13世紀高麗時代の瓦と似ているという事実を知った。 軒丸瓦は、軒先を飾る瓦をいう。
二つの旗とすべて真ん中の丸い円の周りに蓮の葉が彫られ、枠には連続的な点模様があった。 博物館の蓮の葉が8枚、沖縄のものが9枚ということぐらいだけ違っていた。 博物館の瓦は、全羅南道珍島(チョルラナムド·チンド)の龍蔵(ヨンジャン)山城から出たものだった。 龍蔵山城は三別抄が対蒙抗争の根拠地としたところだった。
沖縄から来た瓦の中には、より確実な内容を伝える岩木瓦もあった。 瓦にはこんな字が書かれていた。 「癸酉年に高麗の瓦職人が作った(癸酉年高麗瓦匠造)。' 1273年、済州道の三別抄勢力が鎮圧されたまさにその年が癸酉年だった。 それなら、珍島や済州島から沖縄に向かった一部の三別抄勢力が沖縄に到着した後、この瓦が覆われた建物を建てたのだろうか?
この「高麗瓦」は浦添城や首里城など様々な場所から出土し、古くから知られていた遺物だが、国内ではそれほど大きな関心を呼び起こすことができなかった。 日本の学界では概して瓦の「癸酉年」が朝鮮開国直後の1393年だと見てきた。 「高麗史」で初めて高麗と維鳩国の間の交渉記録が登場するのは維鳩国中山王察都が使臣を派遣した1389年であるためだ。
ところがユン·ヨンヒョク教授は発表文を通じて「癸酉年は1273年以外の他の年になりにくく、その瓦を作った勢力は三別抄が有力だ」という見解を明らかにした。 1389年なら高麗の職人が元や明の年号を使った可能性が高いが、瓦には干支(干支·十干と十二支)だけを記録したが、三別抄は外交文書で干支だけで年代を表示したということだ。 また、1392年の朝鮮建国は少数の政治集団によるクーデターの性格が強かったため、技術者集団が海外に移住する状況が起こる条件でもなかった、
彼は珍島の三別抄がモンゴルの圧力に対応する方便で日本との共同戦線を構築しようとしたことに注目した。 珍島が陥落してからしばらく後の1271年9月に京都に到着した書簡で、三別抄は「蒙古がまもなく日本を侵略するだろう」とし「食糧と兵力を協力してほしい」と要求した。 済州道(チェジュド)の三別抄勢力(高麗耽羅)も、日本に到着した元の使臣趙良弼(チョ·ヤンピル、趙良弼)の活動を妨害し、京都入りできないようにした。
このような外交活動を考慮すれば、▲当時、三別抄勢力が珍島(チンド)から済州島(チェジュド)に移動する際、残りの勢力の一部が済州島ではなく日本など第3の地域に分散した可能性があり、▲済州島陥落当時は珍島の時よりさらに多くの分散が避けられなかっただろうと、尹教授は分析した。
ところが、後代の記録を見ると、朝鮮人が遺構列島(沖縄)に漂流し、送還された例が多く登場する。 朝鮮王朝実録だけでも「太祖実録」太祖6年(1397年)条に9人が遺構に漂着したのをはじめ、明宗1年(1546)まで13件の事例が記録されている。 これはほとんど送還されたケースであるため、実際に漂流した例はさらに多かったと考えられる。 遺構に着くまで時間もそれほどかからなかった。 1770年(英祖46)12月25日、済州港を出港して遭難したチャン·ハンチョル一行はわずか3日後の28日に沖縄の湖山島に到着した。
このような事例は、三別抄が済州島から計画的な航海を試みた場合、十分に沖縄に到達できたことを示唆する。 珍島陥落が5月、済州陥落が4月のことだったが、朝鮮後期の記録による統計によると、4月から8月までの5ヵ月間の期間が海上事故が最も珍しい期間だった。
ところが三別抄が沖縄でその瓦で建物を建てたとすれば、これはまだ古代史の大部分が空白として残された沖縄の歴史で非常に重要な意味を持つことになりうる。
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https://h21.hani.co.kr/arti/COLUMN/COLUMN/20636.html
▣ 済州=文·写真ノ·ヒョンソク記者nuge@hani.co.kr
約800年前、モンゴル帝国に最後まで抵抗した高麗の武装兵士集団。 国内パルチザンの元祖ともいわれるこの私兵集団は、今も韓国人にとって民族主義戦士のイメージとして残っている。 1260年、元の圧力に江華島から開京に還都しようとする高麗の朝廷に対抗し、彼らは南道の珍島に、済州島に移り3年間戦闘を繰り広げた。 凄絶な大モンゴル抗争を繰り返したが、などの史書はペ·ジュンソンが率いるチンドの三別抄軍が1年余り後の1271年に攻めてきた高麗政府軍とモンゴル連合軍に鎮圧され、済州に逃げたキム·トンジョンの残余勢力も2年後に掃討されたと記録している。 本当に記録どおり三別抄はその後完全に消えたのだろうか。 とりわけ熱かった今年の夏、国立済州博物館(館長ソン·ミョンジョ)では、従来の史書の三別抄滅亡記録に正面から疑問を投げかける史料が発掘された。
「見つけました。 同じ瓦です!」
「見つけました。 蓮の葉の模様も配置された形も同じです。 同じ瓦です!」
今年6月初めのある日、沖縄海洋遺物特別展(7月17日~8月26日)を準備していた国立済州博物館の学芸室から嘆声が上がった。 オ·ヨンスク学芸員とミン·ビョンチャン学芸室長は、目の前に並んでいる軒丸瓦と二つに交互に目を向け、会心の笑みを浮かべた。 沖縄から借りてきた出土品である昔の瓦の軒丸瓦が、同博物館が所蔵する全羅南道珍島(チョルラナムド·チンド)の龍蔵省(ヨンジャンソン)出土品である13世紀高麗時代の瓦とほぼ同じだという事実を確認したばかりだ。 沖縄を支配した旧遺構(琉球)王国の首都首里城と浦添という所から出た瓦は、軒先の真ん中に丸い子房を置き、周囲に9つの蓮の葉を彫り、再び外側に連続点文(蓮珠文)で縁取りをした高麗系瓦だった。 龍蔵城の瓦も蓮の花びら、演奏文の模様などの配置が同じだが、ただ花びらの数が8個(八葉蓮華文)で一つ少ないだけだ。 龍蔵城?三別抄が高麗朝廷とモンゴル帝国と抗戦するために珍島に築いた天恵の要塞だ。 ここの建物跡の瓦がなぜ数千里の青い海を渡って南の異国の地、島のあちこちから大量に出てきたのだろうか。 三別抄の兵士たちが茫々たる大海を越えて沖縄まで流れ込んだのか?
閔室長は今年8月21日、特別展記念講演を行った日本現地の学者、浅戸勉(沖縄県立芸術大学教授)に先立ってこの事実を伝えた。 龍蔵城の瓦を見た安里は驚いた様子がはっきりしていた。 沖縄から出た謎の高麗系瓦の主人公は、13世紀の三別抄勢力である可能性が一層高くなったと彼は断言したというのが博物館側の伝言だ。 沖縄の瓦と形が似ている比較品を探すために所蔵品を探して得た意外な収穫だった。
「癸酉年、高麗の瓦職人が作った」
私たちには馴染みがなくても、沖縄で出土した700~800年前の高麗系瓦が三別抄勢力のものだという推定は、日本学界で今更の仮説ではない。 数十年前から沖縄列島の随所で日本本土、中国系とは全く違う文様と形態を持ち、時期もはるかに先立つ高麗系軒丸瓦、軒丸瓦が相次いで城跡王陵地で出土した。 現地の学者たちは数十年間、この瓦を作った主体と時期をめぐって論争を続けてきた。
この過程で最も注目された遺物が特別展にも披露された「癸酉年高麗蔵人と長調」(癸酉年高麗匠人瓦匠造)という文字が刻まれた岩瓦だ。 台形の形に魚の骨組み模様が一緒に彫られたこの大型瓦の銘文は「癸酉年高麗の瓦職人が作った」という意味だ。 昔の維鳩国王の墓の中の建物に使われたこの瓦の銘文に高麗の職人であることを堂々と知らせたことから見て、高麗の職人の政治的地位と誇りがすごかったということが推察できる。 問題は「癸酉年」の具体的な時期がいつなのかだ。 高麗(コリョ)の職人がいつ沖縄に進出したかを示す証になるからだ。

状況上、瓦の癸酉年に合わせられる高麗の年代は1153年、1273年、1333年、1393年だ。 最も有力なのは三別抄が滅亡した1273年と朝鮮王朝建国直後の1393年だ。 1273年説は、済州島から脱出した三別抄の船団が相当数沖縄に漂着し、勢力を形成したという推定だ。 済州島で海流に乗れば行ける所は九州と沖縄ぐらいだからだ。 いざ日本では1393年説が有力だった。 沖縄の最初の交流が高麗時代の1389年、悠久国の使節を派遣したことから始まるからだ。 したがって高麗滅亡直前に公式交流が始まったと見なければならないので、良質の高麗瓦を作る高級技術者派遣はこのような公式交流以後に可能だということだ。 高麗朝廷の公式技術者派遣や高麗滅亡後、相当数の流民が定着して生じた結果だという論旨だ。
しかし、珍島の龍蔵城の軒丸瓦の登場は、1273年説にさらに力を与えることになった。 沖縄出土の軒丸瓦が龍蔵城跡のものと同じである反面、中国や日本本土系瓦ではこのような類型が全くないためだ。 それなら、三別抄勢力の一部が直ちに珍島から沖縄に流れ込むことができるだろうか。 東西に1千kmに達する沖縄列島は済州島の南側で平均780~800kmも離れている。 しかし、流速の速い海流に乗れば、普通10日から15日、早ければ1週間以内に済州から沖縄に到達するという。 それなりに渡航の準備を緻密にすれば、相当多くの人員が移動することもありうる。 には済州~琉球列島の間に無数の漂流民送還記録が載っており、まれに珍島に漂流してきた遺構国の人々を中国に送り現地の遺構国使節に渡したという記録も伝える。 その上、珍島を抜けて2年間さらに抗戦したキム·トンジョンの残余勢力が抵抗した済州道の抗波頭里城は今までまともな発掘がなされたことがない。 発掘の結果次第で、済州でも沖縄の高麗計器が出る可能性はある。
恨みを抱いて済州で船に乗ったのだろうか
興味深いのは、三別抄が歴史から消えた13世紀から沖縄の人々は、地域勢力家たちがグスクラという大きな城を築き、競争しながら本格的な国家体制を形成し始めたという点だ。