関東大震災と異郷での生活
1923年9月1日、日本の東京近郊で大きな地震が発生しました。
ほとんどの建物が壊れ、鉄道や道路もすべて壊れてしまいました。
水道と電気も止まり、街の至る所が炎に包まれました。
亡くなった人、遺体すら見つからない人も14万人を超えました。
地震で大きな被害を受けたため、日本人は政府を厳しく非難しました。
"地震に備えられなかった政府は反省せよ。"
"政府は地震被害に対する補償を実施せよ!"
追い詰められた日本政府
根拠のない噂が広まりました。 ※諸説あり
「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を殺し、財産を奪う。」
「火を放ち、井戸に毒を入れた朝鮮人を何人も逮捕した。」
このような噂は日本人を興奮させました。
日本の軍人や警察は、密かに爆発物を爆発させたり、井戸に毒を入れたりする行為を行い、日本人を煽っていました。
日本人は村ごとに自警団を作り、朝鮮人を探しに出かけました
"あなた、朝鮮人だよね?"
"あ、あ、いいえ....."
彼らは通りすがりの人を呼び止めて朝鮮人かどうか確認し、日本語が不自由だったり朝鮮人だと言ったらその場で殺しました。
男性も女性も子供も区別せず、朝鮮人が多く住んでいた地域は村全体を焼き尽くしました。
なんと6,000人以上の朝鮮人が亡くなり、それ以上に多くの人々が家族や財産を失いました。
国を失った民族の悲しみがどれほど大きいかを示す事件でした。
国のない悲しみは満州やロシアに住む人も同じでした。
満州の朝鮮人はほとんどが中国人から土地を借りて農業をしなければなりませんでした。
しかし、中国の官僚が朝鮮人をいじめることが多かったのです。
また、盗賊と呼ばれる盗賊団が朝鮮人の心を攻撃し、人を殺し、財産を奪うこともありました。
日本軍も独立軍を探すと言って突然押し寄せてきました。
「独立軍がいる場所を出せ!」
日本軍は無理やり独立軍を探し出すようにわがままを言いました。
「わかりません。」
独立軍を見たことがありません。
" "嘘をつくな、独立軍を隠していることを知っている!"
日本軍は罪のない朝鮮人を殺しました。
独立軍が密かに助けを求めるかもしれないという理由で、朝鮮人の村を焼いたこともありました。
ロシアにも20万人近くの朝鮮人が高麗人と呼ばれながら暮らしていました。
その中には自分の土地で農業を営む人も多く、都市で商売をしながら生活する人もいました。
1917年に革命が起こり、ロシアがソ連に変わると、多くの朝鮮人がソ連を助けました。
しかし、沿海州に朝鮮人が多すぎると考えたソ連は、1927年から朝鮮人を各地に分け、朝鮮から遠く離す計画を立てました。
この噂は朝鮮人にとって衝撃的でした。
"どれだけ苦労して築いた土地なのに....."
"やっとここで暮らせるのに、またどこに行けというのか!"
ソ連を助けた小説家のチョ・ミョンヒは地域の役人を訪ねました。
"朝鮮人はここでずっと暮らしたいと思っています。 多くの朝鮮人がソ連を助けたので、私たちの意志を聞いてください。」
しかし、ソ連の官吏ははっきりと拒否しました。
"申し訳ありません。 政府が決定したことなので仕方がない。」
数日後、チョ・ミョンヒと指導者たちはソ連軍に引きずり込まれ、戻ることができませんでした。
1937年9月、朝鮮の人々は涙を流しながら列車に乗らなければなりませんでした。
列車の荷物に載せられて40日ほど旅をした末に到着したのは、中央アジアのウズベキスタンとカザフスタンでした。
どれほど過酷で生きづらい場所だったのか、冬が過ぎると朝鮮人の数は20万人から18万人に減少しました。
朝鮮の人々はここでも成功裏に地位を確立しました。
しかし、すべてを奪われ、愛する人を強制的に送り出さなければならなかったのか私はこの出来事を決して忘れることはできません。






