壬辰倭乱 1592年4月13日午後、日本は20万人の兵力を動員して朝鮮を攻撃してきました。
当時の朝鮮の精鋭部隊はわずか5万人程度でした。
さらに、朝鮮は建国以来200年間一度も戦争を行わず、戦うことも知らず、武器も錆びた状態でした。
それに対して倭軍は100年以上にわたり内乱を戦い、西洋から持ち込まれた火縄銃まで持っていました。
倭軍は上陸してから1日も経たないうちに釜山鎮城を陥落させ、
初戦場となった釜山鎮城
トンネ城
今もあとが残っている。
続いて東莱城を崩壊させました。
こうして押し上げてきた倭軍は、わずか13日で忠州まで手に入れてしまいました。
탄금대침투
そこで朝鮮の朝廷は、勇将の申立を立てて対抗させました。
新立は優れた将軍でしたが、兵力がはるかに多く、
新兵器で武装した日本軍に対抗できませんでした。
新立は炭金台で小西行長の軍に敗れ、命を失ってしまいました。
そして5月2日、加藤清正が率いる倭軍は漢江を渡り、ついに朝鮮の都である漢陽を手に入れました。
倭軍が無我夢中で押し寄せると、宣祖や家臣たちは逃げるのに必死。
宣祖は民に知らせることもなく、臣下たちと共に密かに臨津江を渡って逃げました。
宣祖は、もし倭軍が追いかけてくるかもしれないと思い、臨津江にあるすべての船を焼き払うよう命じました。
臨津江の向こう側では、川を渡れなかった避難民たちが民を見捨てて逃げた王に恨みと罵声を浴びせました。
「王が民を見捨てて逃げることができるのか! 今や私たちには王はいない!」
宣祖は平壌城に滞在した後、再び義州へ逃げました。
いざとなれば明に身を隠すつもりでした。
"ああ、どうしてこんなことになったのか。 もし私が以前に日本の侵入に備えていたら、こんなことは起きなかっただろう……。」
そのとき、スンジが走り寄って平壌城が敵に渡ったと伝えてくれました。
"平壌城が?それなら世子はどうなったのか?"
"世子光海君は無事に脱出し、軍を率いてここに来ているとのことです。"



















