燕山君が亡くなった後、真成大君が王位に就きました。 燕山君を追放し、中宗を王に立てたこの事件を「中宗反正」と呼びます。 暴君の燕山君が退いたものの、宮殿は依然として騒がしかった。 中宗は他人の助けを借りて王になったため、力がありませんでした。 「私が燕山君を追い出すのに最も大きな功績を立てたのだ!」 中宗時代にも奸臣たちの陰謀や功臣たちの権力争いが絶えず続いていました。
士林派と訓古派の対立 士林派は訓古派に対抗していた集団を指します。 朝鮮初期には地方に留まり、学問に励んだ士人たちです。 訓古派は王を助けて官職に多く就きました。 訓舊派と士林派は学問や政治に対する考え方が大きく異なっていました。 訓古派は正統な儒学を中心に学んだのに対し、士林派は朱子の性理学を重要視していました。 成宗は大きな力を持つ訓古派が国の事を左右するのを見て、訓古派の干渉から逃れたかったのです。 『王権を強化するには、訓古派中心の功臣たちの力を抑えなければならない。 そうするためには、士林派の士を登用しなければならない。' この計算で成宗は地方の士林勢力を呼び寄せ、ついに成宗と士林派の士たちは力を合わせて訓古派を押し出しました。 しかし、訓古派は燕山君が王になると、戊午士禍を起こして士林派を宮殿から追い出しました。 二つの勢力はその後も何度も勢力争いを繰り広げ、最終的には訓古派が権力を握ることになりました。




