元宗(1580〜1619)は宣祖と仁嬪金氏の三男で、1587年(宣祖20年)に定遠君に封じられ、壬辰倭乱の際に避難する宣祖を護衛した功績により、扈聖功臣の名を掲げた。
2024.08.17 撮影
1619年(光海君11年)に40歳で亡くなり、1623年に長男の能養君(仁祖)が反乱で光海君を追放し王位に就くと、大院君として追尊された。
仁祖は在位初期から父を王として追尊しようとしたが、臣下の反対により実現せず、在位10年目に父を元宗として追尊した。
仁献王后具氏(1578〜1626)は、能安府院君具思孟の娘で、1590年(宣祖23年)に正院君と結婚し、連珠郡夫に封じられた。
1623年に仁祖が即位すると、啓運宮の演奏夫婦として称えられ、1632年(仁祖10年)に仁憲王后として追尊された。
金浦らしい風景だ。
1619年(光海君11年)に元宗(正園君)が亡くなり、翌年に現在の南陽州市金谷洞に墓が築かれた。
仁祖が即位し、1626年に当時の桂雲宮であった仁憲王后が亡くなると、金浦城山に墓を築き、育慶囲と名付けた。
また、元々の正園大院君の墓も元に昇格し、興慶園と呼ばれるようになった。
1627年(仁祖5年)に興慶園と六慶園を合併し、現在の場所へ移転し、墓の名前を興慶園とした
甲、1632年に定遠大院君が元宗として追尊されたことに伴い、興慶院は長陵となった。
長陵へと高められると、無石人、石馬、石羊、石湖などの石造物が追加で建てられたが、墓丘は屏風石と欄干石を省き、護石だけを巡らせた状態にした。















