台湾 ~ 1952年 日華講和 ~ | みょんじゃさんのブログ

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冷戦   1947年頃から1989年12月まで

ベトナム戦争1955年11月1日 – 1975年4月30日 

1955年にアジア=アフリカ会議。

アジア情勢の変化によって、中国は第三世界(アジア・アフリカ諸国)との関係重視するようになる。

インドとの対立、中印国境紛争。
→ インドネシアをはじめ、東南アジア諸国、日本共産党との関係悪化している・・・(;'∀') 

1956年2月の ソ連の フルシチョフによるスターリン批判(;'∀') 
これから対ソ連意識が強まる。 

1958年 台湾海峡危機。
北ベトナムへの侵攻は社会主義中国にとっても大危機になった。 

1959年、ソ連は中国の核兵器開発への協力を中止、中ソ技術協定を破棄。
⇒技術者の引揚げ。
・中国独自の第二次五カ年計画を出した。

→ 中国はソ連指導部を「修正主義」、ソ連は中国指導部を「極左冒険主義」と非難(;'∀')

1963年8月、米、ソ、英は部分的核実験停止条約に合意。中国を牽制。
10月16日  中国の核実験の成功(してしまった。)

1969年3月、中ソ国境紛争、珍宝島事件(ダマンスキー島事件)。

1964年初の核実験

1967年初の水爆実験が行われて、中国はアジア初の核保有国・・・
1970年代、米中接近。
1989年、ゴルバチョフ訪中、中ソ関係の正常化。
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~~文化大革命が起きる。~   

1961年に 姚文元(文芸評論家)「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」(1965年)。
中国語:评新编历史剧《海瑞罢官》)

後の四人組の一人姚文元が1965年11月10日に上海の文匯報に発表した評論で、後にこの年の11月30日に全国紙の人民日報に転載された。

評論の対象は、1961年に発表された京劇「海瑞罷官」の作者・呉晗である。
姚文元は、『海瑞罷官』は封建地主階級の海瑞を美化し、劇中の民衆冤罪取り消し(平冤獄)と地方官僚が没収した土地の民衆への返還(退田)は、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配・人民公社解体を主張するもの

1964年経済全般が回復基調に転じる。重工業と農業の発展目指す。

劉少奇は党中央を代表して、1962年の会議で大躍進運動を「三分の天災、七分の人災」と総括。
劉少奇が毛沢東の政策の失敗の理由を”自然災害と重なったことと国際関係の悪化など専ら外的要因に求める。”と言いつつ、後に大躍進運動を建国以来初めての深刻な誤りであるとした。。。
毛沢東は自己を批判したが、農業集団化を中止することに反対。
大躍進の評価をめぐって、毛沢東と劉少奇らの間に大きな食い違いが起きてくる。 

1965年末から66年にかけて『海瑞罷官』はプロレタリア独裁と社会主義に反対する「毒草」であると攻撃した。

毛沢東は学術においても革命が必要と述べ、「文化革命」を提唱。 

1966年5月、毛沢東は中央文化革命小組を設置。ブルジョワ思想や修正主義の取り締まりをを提起。
→ 初めて「プロレタリア(無産階級)文化大革命」を提示。
⇒   毛沢東は背後の劉少奇と鄧小平の打倒を目的。 

1966年5月、北京の学校内に毛沢東を支持する壁新聞(「大字報」)貼りだされる
学生たちは学内の幹部を批判・攻撃。学生の中に腕に赤い腕章を巻き、毛沢東思想に従って戦う「紅衛兵」が出てきた。徐々に全国の大学生・高校生へとひろがった。 

毛沢東は学生運動・紅衛兵を支持し、「20世紀のパリ=コミューンだ」と称賛。

6月末、清華大学附属中学に「プロレタリア階級の革命的造反精神万歳」という大字報。

毛沢東は「造反有理」の語を使って手紙を送った。

劉少奇らはかつての北洋軍閥や国民党と同じように学生運動を弾圧していると非難。
矛先はついに学生の運動を抑ようとした劉少奇へ。 

1966年8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題した大字報(壁新聞)を発表し、公式に紅衛兵に対し、党指導部の実権派と目された鄧小平や劉少奇国家主席らに対する攻撃を指示する。

また紅衛兵による官僚や党幹部への攻撃が「造反有理(上への造反には、道理がある)」のスローガンで、正当化された。

8月から11月にかけて延べ1400万人以上の紅衛兵が北京の天安門で何度も集会
10月、劉少奇と鄧小平は自己批判を表明したが、収拾できず。
1966~1968年、活動の高揚期。  

紅衛兵の心理としては 親世代の革命(1930~1950年代) 戦後を乗り越えてきた世代が自ら革命の主役となる機会の到来!!
毛沢東に腕章をつけた紅衛兵の代表「宋彬彬」。毛沢東面会後、「宋要武」に改名。

1967~1969年、文革は初期ほどの高揚から混迷期
紅衛兵「造反有利、革命無罪」をスローガンに暴力的な糾弾集会、破壊活動、知識人や文化遺産への攻撃
高い地位人は、「反革命」とされ、三角帽子を被せられた
しかし、運動は彼らの思惑を超えて過激化。  

教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。 特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。  

毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。

実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。

さらに旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。
1968年10月 劉少奇は国家主席などの役職を解任。共産党から「永久除名」
1969年11月監禁状態のまま病死?

1968年12月、毛沢東「知識青年が農村に行って貧農・下層農民の再教育を受けることは必要である」。

1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図る
毛沢東が権力を奪回して、林彪と江青が後継者として台頭。

1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言 
1970年に「周恩来四条件」を日本とする。

1970年秋以降、トヨタ、旭化成など有力企業が四条件を受け入れ

日中正常化が現実化に動き出す  公明党と社会党が動き出す。

1971年林彪事件。クーデター失敗 

1971年に名古屋で世界卓球選手権大会

4月に周恩来直筆でニクソンへ書簡を送り訪中を歓迎

7月にキッシンジャー極秘訪中 体調がすぐれないという口実でこっそり会う
1971年7月、公明党代表団訪中、「日中国交回復の五条件」を提示

10月 国連の中国代表権を承認。
1972年、ニクソン訪中、

1972年2月28日の「上海コミュニケ」を発表し、米中冷戦に終止符が打たれたが、この時に台湾問題を曖昧

1972年5月、周恩来が公明党第二次訪中団