1956年5月~1957年6月 百花斉放・百家争鳴 を行った。

政治・思想・文化:反省し、自由で活発な議論が行われるように。
~反右派闘争~~
1957年 10月15日 中国共産党の毛沢東主席が主導した、党への批判者を「右派分子」として弾圧・粛清した政治運動が起きた。共産党幹部の予想を超える批判。再び政治思想の強化に乗り出さざるを得ない立場に。
毛沢東の不安:主導権の喪失、政権転覆。
文学者、芸術家、思想家などの言論活動にも影響。
1958年5月~ 「社会主義建設の総路線」の第2次五ヶ年計画を発表
ソ連をモデルにするのはやめて中国独自路線へ
「多快好省地建設」(「多く、早く、よいものを無駄なく建設する」)ことを全党に呼びかけ、大躍進へ。
1956年のソ連のスターリン批判のフルシコフへの不信 で中ソ対立
国内でも毛沢東支持するかどうかも対立
1957年に鉄鋼生産が26~32%に成長したが、西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用する方法を農村でも行うようになり、増産した。粗悪な鉄鋼しか造れなかった。工業重視になってきすぎて家庭内の鉄製品が消えていたという背景もあった。
1957年11月 とモスクワで毛沢東が発言 「15年で中国はイギリスを追い越す」
1958年台湾海峡危機(金門・馬祖砲撃)で、アメリカとの緊張関係。
1958年から1980年代初頭まで 人民公社( 中国の農村で展開された)行政と生産が一体となった集団組織
土地改革後の農業生産の問題を解決するための農業集団化。
公共食堂や託児所、幼稚園、老人保養施設などの新増設。
働く意欲低下から 1982年解体
知られざる中国
社会主義中国が資本主義の道を進み、急激な発展により都市部と農村部の経済格差が広がるであろうと報道される中、現在も共産主義を掲げそれを実践している村が中国にある。さらには、おのおのの村が互いに密接な連携をとりつつ全国組織を作り発展を遂げている。この成功例は、若い農業の担い手がなく田畑が荒れ放題になっている日本の高齢化社会の現状打破に、そして「ともに豊かになる」社会への大きなヒントを与えてくれるであろう。amazonより
1958年11月 毛沢東「共産風の大げさな傾向は是正しなければならない」と反省
人民公社化の行き過ぎを認めた。
この頃 小麦とコメの収穫高がよかったと人民日報で誇張されたため翌年の生産と労働力に緊張感が出て農業生産失敗。
1959年4月、国家主席を劉少奇と交代。(党主席には座り続け権力奪回の機会を狙う)
7月の廬山会議で国防部長彭徳懐が大躍進の失敗と毛沢東を批判。毛沢東は激怒して彭徳懐を国防部長から解任。
1959年のチベット反乱。
1959年~61年、自然災害に伴う大飢饉の発生。→ 食糧不足、大躍進期の過労や栄養不足など。
→ 1,500万から5,500万人の死者。
フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』
毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災1958-1962
人が人を食べるという災難もあったとか・・・
2000年代に公開された地方の党公文書から得られた知見で
大躍進期は少なくとも4,500万人が飢餓・過労・国家の暴力によって死亡したと推定。
『無言歌』
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『死霊魂』
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1960年末、大躍進運動を停止した。
1962年、毛沢東は公式に大躍進の失敗を認めた。自然災害などの原因もあり困難な状況だった。









