新羅時代には王家の血統によって権力序列が決まる骨品制が支配していたが、統一新羅末期に入り次第にその権威が崩れ、地方豪族が新しい勢力として跋扈するようになったのだ。 これは古代社会から中世社会に転換された当時の世界史の流れとも合致する。 門閥貴族支配期には大きく開京派、東京(慶州)派、西京(平壌)派が三分され、競争関係にあったが、これらの豪族勢力が互いに争い、競合する間に権力から疎外されていた武臣集団の不満が積もり、結局政変を起こし、武臣政権時代が到来することになる。
武臣政権期の最大権力者はチェ·チュンホン、チェ·ウ父子夫子であり、チェ氏一家が4代にわたって権力を独占した時期が武臣政権の絶頂期と言えるが、まさにこの時に武臣政権はモンゴル侵入という外国為替を体験することになる。 9回にわたるモンゴル軍の侵略で国中が修羅場になったが、チェ氏政権は江華島に遷都して屈服せず、イ·ギュボはこの強盗江戸時代の高麗朝廷の最高文臣だった。
江華島吉祥面の李奎報祠と墓地
李奎報は権力に媚びる志操のない文人という悪い評価を主に受けているが、民族の精気を守るために努力した節操のある知識人と評価するに値する。 彼の著書『東明王編』は韓民族古代史の英雄、東明聖王(朱蒙)の高句麗建国史を栄光に歌い、後代に民族の誇りを持たせた作品と評価される。 彼は民族の精気を盛り込んだ叙事詩以外にも『国先生伝』、『李玉雪』など多くの小説作品を残し、近代叙事文学の開拓者と評価されるほど文学の鬼才でもあった。 仁川には李奎報の遺跡が多く残っている。 富平区白雲洞は彼の号「白雲居士」から取った地名であり、江華島吉祥面には彼の墓地がある。
李奎報は高麗中期の代表的な文人であり、彼の人生を見れば、高麗武臣政権の激動期の歴史に簡単に共感できる。 彼を主人公に描き出した時代劇があまりなくて残念だが、彼は当代最高の文人として多くの著書を残し、彼の人生を簡単に再構成することができる。 李奎報(イ·ギュボ、幼少期の聡明さで有名だったという。 幼い子供がどれほど聡明だったのか、彼の故郷の驪州の人々は「インジャー」を奇異な話、キドン(奇童)と呼んだという。 9歳の時から文章をよく作って人々を驚かせ、ほとんどの経典は全部丸暗記するほどだった。 10歳くらいの幼い子供がこのような漢詩を作ったというのがとても驚くべきだ。
紙 路長行 毛 学士の道には、某学士がずっと通っていて
盃心常在鞠先生の杯の中には国先生がいつも入っているね
その年にいつも筆(母校)を持って作文を楽しみ、酒(国先生)を好んで飲んでいたというから、早熟すぎたのではないか。 天才と噂されていたが、過去の試験では数回落ちたことを見れば、試験科目にはあまり関心がなく、文学に心酔したようだ。 一生8000数の詩を作ったというから、幼い頃から詩才が格別だったと推察できる。
3回連続で過去の試験に落ちたが、4回目の試験では1位で合格した。 浪人、三浪落ちして、死守の時に首席合格だから···。 奇異な子、機動(奇童)に違いない。 このような過程を経て「インザー」は「ギュボ」に生まれ変わる。 4回目の科挙試験を受けに行く日に夢を見たが、空の星(奎星)が「インザー」を撃って「あなたは荘園及第するだろう」と予言する声を聞き、実際に荘園及第をすると名前を最初から「ギュソンが教えてくれる」という意味の「ギュボ(奎報)」に変えた。 彼の年齢は22歳だった。 過去にやっと合格したものの、官職につくのは容易ではなかった。 30歳を超えるまで発令が出ず、部屋の中に閉じこもって詩を書いて過ごした。 そのように過ごした10年の歳月がどれほどもどかしかっただろうか。
父親が彼を出世させようと努力すればするほど、彼は反発心が大きくなったようだ。 19歳の若さで、中国の竹林(チュクリム)7県を模倣して、酒を飲んで歌う会を作り、いつも酒に酔っていた。 酒に酔って試験を受けることもあったという。 酒を擬人化して「国先生伝」という小説を書いたこともあるので、彼の酒癖が大体分かる。 このような彼の若い時代を見れば、崔氏の武臣政権時期に高麗社会に対する青春たちの抵抗意識をざっと察することができる。 彼の作品「七賢説」に文学する友人たちが集まって酒を飲みながら世の中を嘆く話が含まれている。
武臣政権の時には官職の座より数倍も多い科挙の合格者を輩出したという。 科挙に合格しても官職につくのは至難の業だった。 李奎報も科挙に及第し、10年余り官職に就けなかった。 あれこれと請託をしてみたりもしたが無駄だった。 本当に不遇な時代だったが、逆説的にもこの不幸は彼を文人に成長させた。 多くの文人たちと付き合いながら文学を論じ、世の中の流れを分かち合った。 付き合っていた友人の中には、李仁老(イ·インロ)、林春(イム·チュン)など韓国文学史に有名な文人も含まれていた。
この時期、高麗は金の侵略を受け、困難に直面していた。 だから文人たちが集まって酒と歌だけを欲しがることはできなかった。 国の事情がこうだから、自然に民族の精気に対する意識が芽生えるしかなかった。 金の侵略と農民の反乱で騒然となった高麗は、モンゴルとの戦争でそれこそ修羅場になってしまう。 『東明王編』(1193)はこのような乱世に生まれた作品だ。 高麗は古朝鮮と高句麗の精気を受け継いで建てた国で、満州一帯は私たちの先祖の強役だったが、今や北方の蛮族女真族が占め、半島の高麗まで見渡すと傾いていく国運を嘆くしかなかっただろう。
























