高麗時代 24代 元宗 ~ 1258年 金俊 ~ | みょんじゃさんのブログ

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★金俊

金俊は1258年(高宗45)、戊午政変(戊午)を主導し、衛士功臣(衛)に続き侍中まで上がった武臣だ。 

戊午政変はキム·ジュンがユ·ギョン、パク·ソンビなどと共にチェ氏武臣政権の4代執政者チェ·イを除去し王政復古を成し遂げた政変を指す。 

弓術と馬乗りが上手で、協気(俠氣)があってチェ氏武臣政権の2代執政者チェ·イ(崔怡:草明チェ·ウ(崔瑀))に抜擢され、前々勝地になった。 また、チェ·イの息子チェ·ハン(崔沆)が政権を世襲するのに功があり、別荘(別將)になった。 しかし、チェ·ハンの後を継いだチェ·ウィ(崔竩)がチェ·ヤンベク(崔良伯)·ユヌン(柳能)などを信任し、自分を遠ざけることに不満を抱き、1258年(高宗45)ユ·ギョン(柳璥)·パク·ソンビ(朴松妃)などと謀議してチェ·ウィを殺し、王政復古を企てた。

 

午政変の成功で将軍(將)に登り、衛社功臣2位になった。 しかし政治の実権がユギョンに戻ると弟のキム·チュン(金冲:草明キム·スンジュン(金承俊))と共に高宗に懺悔しユギョンの昇仙(承宣)職を罷免させ、彼の一味であるウ·ドゥクギュ(禹得圭)·キム·ドゥクリョン(金得)などを惨殺し、慶元錄)は流刑に処した。

 これにより「金俊政権」を誕生させた。

 

 

権力を掌握した後、1259年(高宗46)に元宗が即位し、1260年(元宗1)衛士功臣の順番を直し、自分を第1にし、枢密院府使御士大夫主国太子賓客の益陽郡開国伯(樞密院副使御史大夫柱国太陽郡開国伯)に封じるようにした。 

 

1263年(元宗4)には受胎位の参知政事·板魚寺大士·太子小士の職位に就いた。
1264年(元宗5)8月、元宗がモンゴルに行く前に崔氏の武臣政権の権力基盤である教定別監に任命され、官吏の非違を規察することを担当し、続いて監国の任務を担当し、王の不在時に国政を担当できる権力を掌握した。 1265年(元宗6)に元宗が帰国した後に侍中に任命され、海陽侯にも冊封された。 

 

このように権力の絶頂に達すると、キム·ジュンの一族や子供たちも耽学を日常的に行い物議をかもし、民を苦しめるだけでなく王室に捧げる内線までも奪取した。


1268年(元宗9)、モンゴルから使臣を送り、徴兵(徵兵)に関する調書を伝えると同時に、金俊父子と弟の金忠をいずれも燕京に入朝させる事件が発生すると、恐れを感じて将軍の車松佑と話し合い、モンゴルの使臣を殺し、元宗の除去を図るようになった。 しかし、弟のキム·チュンの反対でその計画が実現できなかった。

 

 

 王権強化のためモンゴルとの強化を図った元宗はモンゴル使臣に反対する金俊の態度を不満に思っていたが、金俊の謀議事実を知り、姜允昭(康允紹)·林淵(衍)などに命じて惨殺した。