1231年8月、モンゴルの将軍サリタが軍隊を率いて攻め込んできた。
「将軍、モンゴルと高麗は兄弟だから戦争をやめましょう」
「私たちの使臣を殺した責任はどのように負うのでしょうか?」
「実は私、コヨを殺したのは金の国です」
王政はサリタとモンゴルの将軍たちに多くの礼物を与え和議条約を結びました。
しかし、モンゴル軍は西京をはじめとする西北面40の城にモンゴルの管理人ダルガチを残して立ち去りました。
高宗18年の1231年、このことにより、蒙古はサルリタ(撤礼塔)を使って高麗を攻撃しました。
危機を感じた高麗は王政を使臣として送り、モンゴル軍をなだめました。
この時、蒙古はジンギスカンの3番目の息子であるオゴタイが皇帝でした。
高麗の城は、一つずつ蒙古の騎馬兵に踏みにじられ、蒙古軍が鉄州城を攻撃していた時でした。
城の外で見張っていた郎特の文大が、蒙古軍に生け捕りにされました。蒙古軍は文大を脅迫し、城のかげに引き連れました。
「城内の高麗軍に早く城門を開けろと言え!」
しかし、文大は蒙古軍の言うことを聞くどころか、
「勇敢な高麗の兵士たちよ、最後まで戦って城を守れ!」
と、叫びました。
「えい、この野郎!」
蒙古軍は剣を振りかざし、文大を斬り殺しました。
敵をさぐりに城の外へ出た鉄州城の郎将文大が、豪古軍に捕らえられた。
しかし、文大は死んでも敵に届しなかった。
文大の死を目撃した高麗の兵士たちは、新たに勇気をふりしぼりました。
李希蘭将軍の指揮で、城を守り、戦い続けました。
しかし、蒙古軍の激しい攻撃により、城はついに崩れ去りました。
李希衛対策は最後まで戦って、自ら命を絶ちました。
一方、南から攻めてきた。
舌軍は亀州城を包囲しました。
亀州城は、西北面兵馬使の杯取ら慶孫将軍といっしょに守っていました。
「高麗の兵士たちよ、姜邯賛将軍の亀州大捷を思い起こせ!」
朴犀は声高に叫びながら先頭に立って軍隊を率いました。
蒙古の騎馬兵が津波のように押し寄せ、城を攻撃したが、亀州城はびくともしませんでした。
かえって蒙古軍の犠牲者だけが次第に増えました。
サルリタは蒙古軍に降伏した朴文昌を城に送りました。
「将軍、蒙古軍の勢力はとてつもありません。いっそのこと、降伏してはどうでしょう」
「うるさい!国を売った者がどこでそんな口をきくのか。馬鹿野郎め!」
朴犀は怒号とともに朴文昌の首を斬り落した。
一方、金慶孫は機敏な兵士12名を連れて、暗闇をつき、こっそりと敵陣に入りました。
勇敢な高麗軍は喚声をあげて、四方に分かれ、敵を攻撃しました。
突然のことに驚いた蒙古軍は、自分たちで斬り合いをはじめました。
そうして高麗軍はこっそりと敵陣を抜け出ました。
夜通し、自分たち同士で戦った蒙古軍は、多くの兵士を失いました。
「こんな戦は生まれて初めてだ」
サルリタは魂が抜けたようになり、亀州城を放棄し、遠回りして開京へ向かいました。
サルリタが率いる蒙古の騎馬兵は、激しい大波のように開京(開城)に向かって下っていった。
高麗の朝廷では大将軍の蔡松年を兵馬使に任じ、敵に対抗させました。
しかし、蔡松年は安北部(現在の安州)で大敗しました。
蒙古軍はついに開京城を取り囲みました。
そうした後、サルリタは城内に向かって叫び、脅迫しました。
「高麗の国王は早く出てきて降伏せよ!そうでなければ廃墟にしてしまうぞ!」
人々は震えあがりました。
「オランケの奴らが城を包囲してしまった。城外へ抜け出すこともできない!」
「今や身動きもできん。座して死を待つしかない」
篠舌軍は隊を分け、すでに楊州(現在のソウル郊外)、密州、意州、清州まで踏みにじりました。
朝廷では、仕方なく淮安公・低を送ってサルリタをなだめました。
これは降伏ではありませんでした。
しばらく息をつくために、敵をなだめる策です。
サルリタも今や戦いに疲れていました。
そんな時に、高麗が和親を求めてきたのです。
サルリタは戦いをいったんやめ、高麗に使臣を送りました。
蒙古の使臣が崔璃に伝えました。
「先に、我が使臣の著古興を殺した行為を詫びなさい」
「それは将軍の誤解です。著古興を殺したのは我が高麗ではなく、女真族です」
このようにして、サルリタはそれまでの誤解を解き、軍隊を率いて帰っていきました。
しかし、サルリタはこの間に占領した高麗の地に蒙古の官吏を残しました。
官吏はあわせて72名にのぼりました。
モンゴル、高麗に72人の知事(達魯花赤)を配置
この蒙古の官吏を「タルカチ」(達魯花赤)、あるいは「タルハチ」と言いました。彼らは高麗の地にとどまりながら、高麗の人々を監視しました。
蒙古軍が手に負えなくなると、高麗朝廷では王族の淮安公をサルリタに送って和睦を求めた。