日本の神社に祀られ神となった韓国人がいる。有田焼で有名な佐賀では「陶祖」としてあがめられ、陶山神社の祭神の1人として祀られている。李参平(日本名、金ヶ江三兵衛)(〜1655)である。「陶祖」という。
https://youtu.be/9rQPJkKfwhw?si=eDZviHHkdkzAuQlA
磁器創製の基礎を築き、窯業に携わる人々の始祖とさらている。
白磁や色絵磁器などの「有田焼」で有名な有田は、九州佐賀県と長崎県の県境近くに位置する町である。
この有田は、すでに江戸時代初期から磁器の産地を確立し、世界的にも有名な磁器の生産地として知られるようになっていった。
ところが、その有田における磁器生産の基礎を築いてきて、有田の初期陶工集団の中心的人物が朝鮮出身の李参平。
李参平の時代背景は秀吉が全国統一を達成したのは1590(天正18)年
)直後、秀吉は朝鮮への侵攻を企てる。
秀吉が目指したのは東アジア統一を目指すが、まずはアジア文明の発祥地の中国大陸の征服だった。
そして、そのための布石としてまずは朝鮮半島掌握を目指した。
侵攻は1592年から1598年にかけて行なわれた。
日本ではその年号をとって「文禄・慶長の役」とよばれ、韓国ではその干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」とよばれている。
江戸時代の日本では国学の思想が強くなってくるとともに、「征韓」とか「朝鮮征伐」などともようになる。
1592年
(文禄元)年春、秀吉は16万の軍隊を9軍に編成して朝鮮半島侵攻を開始。
日本軍は第1軍が釜山に上陸した後、1カ月あまりで朝鮮の都漢城(現在のソウル)を陥落させるという勢いであった。
また、各地に侵入した日本の諸大名は農民を支配し、農民を人質にとって、人質と引き換えに兵糧米を確保するというようなことも行なった。
このような日本軍の侵略に対して、朝鮮では各地で、両班[高麗・
寺権階層。本来は文武の官僚を意味するが次第に特権的身分として固定されるようになった。1894年の改革で制度上は特権が廃止された。」を指導者とした義兵を組織して日本軍に抵抗した。また、中国の明からも救援軍が送られ、各地で日本と戦った。
こうして、朝鮮半島各地での日本軍対朝鮮・明軍の攻防は一進一退を繰り返しながら翌年までもつれ込み、1593年の春になってようやく日本と明との間で講和のための折衝が始まった。秀吉は明に対して講和の条件7条を提示するが、両者の思惑の違いから、秀吉にとってはしこりが残る講和条約の内容であった。
1597(慶長2)年春、秀吉は、朝鮮国王が講和内容を履行しないということを理由に、再び朝鮮出兵を命じ、14万の軍隊を派遣した。日本軍と朝鮮、明軍との各地での攻防は、今度もまた翌年までもつれ込むが、1598年8月秀吉の死を契機に、日本軍は朝鮮半島から撤退した。
日本軍による2度の侵略行為は、朝鮮半島の国土と人びとの心に消
い爪あとを残した。侵略の最中、朝鮮民衆に対してさまざまな残虐行為が繰り返されたが、その1つは日本への強制連行であった。そして、日本に強制連行された朝鮮の人びとのなかに陶工がいたのである。それらの陶工たちは西日本各地の大名領内で陶磁器の生産を命ぜられた。その陶磁器生産が核となって、
やがて西日本を中心とした各地に陶磁器の産地が形成されていくのである。
こ稿でとりあげている李参平もちょうどその時期に、佐賀の鍋島氏に
日本に連行された朝鮮陶工の1人であったと考えられる。
https://namu.wiki/w/%EC%9D%B4%EC%82%BC%ED%8F%89
3.史料に現われた李参平
李参平の子孫と伝えられる家系は、現在は金ヶ江の姓を名乗っているが、
その金ケ江家に伝わる古文書には、
豊臣秀吉による慶長年間の2度目の朝鮮出兵に際して、鍋島直茂も軍勢を引き連れて朝鮮に渡った。そして、鍋島軍は、攻め口を探していたが、山中に紛れ込んで道に迷ってしまった。案内する者もいなかったが、はるか向こうに小屋が見えたので、家来が立ち寄って道をたずねた。すると、朝鮮人3人が出てきて道を教えたが、言葉が通じなかった。しかし、身振り手振りで、大体の意味は通じたので、その道筋から攻め入り、大勝利をおさめた。
その後、戦いが終わり、鍋島の軍勢が日本へ引き揚げるに際し、船乗り場で、先に道案内をした朝鮮人3人が呼び出され、褒美の言葉が与えられた。
さらに、3人の名前と住所がたずねられ、職業がたずねられた。3人のうちの2人は農業を行なっていると答え、残りの1人、参平と名乗る朝鮮人が上
から陶器を作っていると答えると、次のような申し出があった。すなわち、このたび山道を案内したので、日本軍の撤退後、土地の残党からの報復を受けるかもしれない。ひとまず日本へ来て家業の陶業を続けたらどうかというものであった。その言葉に従って李参平は日本へ渡って来た。
日本に渡った参平ら3人は最初、多久長門守に預けられ、その後有田というところに住んで開墾を行なった。しかし、言葉が通じない上
じめない点もあったので、やがて参平は以前の陶業を始める。
けて領内で焼物の土を探し回った末、現在の泉山に磁石を発見した。
と薪に便利な天狗谷に窯を築いて、日本で初めて磁器の生産を開始
した。多久長門守は参平の功績を慰労し、下女を妻として与えた。また、李参平、出身が朝鮮の金江という地名であったため、「金ヶ江」という姓を名乗ることを許され、以来、日本名を「金ヶ江三兵衛」と名乗るようになった。
以上が、現在まで金ヶ江家に伝わる複数の古文書が語る李参平に関する人物像および事跡である。
注意しておかなければならないのは、この古文書が李参平本人の没後150年ほど経過した時点で、参平の6代目の子孫が記したものであるという点である。したがって、この文書が伝える李参平に関する
内容がどれほど正確であるのかについては問題がないわけではない。現に、今日では、参平が天狗谷に磁器用の窯を築く以前から有田の西部地区で磁器の製造が始まっていたことが考古学的に確認されている。
しかし、少なくとも有田で陶業を始めた初期朝鮮人の中に李参平という人物がいて、有田皿山の陶工グループを統括する地位にあったのは間違いないであろう。というのも、李参平(金ヶ江三兵衛)自身が晩年になって作成した文書よると、朝鮮から渡来して、当初は多久長門守に預けられていたか
(多久から総勢18名で有田皿山に移住して38年になる。各地から
って来たものが現在120名おり、全てが参平の支配下にあると記さ
である。これを見ると、当時、参平が有田の磁器生産の中心地で
指導的な地位に就いていたことが窺えるのである。また、自身の署名に「三兵衛尉」と「尉」を付けているが、これによっても晩年の参平(三兵衛)がすでに高い身分にあったことを窺い知ることができるのである。近年、李参平の存在を直接伝える証拠も確認されている。その
平の日本名である「三兵衛」の名前が刻まれた墓碑が発見されたこと
なわち、参平の子孫の家柄と伝えられている金ヶ江家の近くにある
の墓地から、上部が欠落した「⬜︎祖月窓浄心居士同名三兵衛立之」と
墓碑が発見されたのである。さらには、西有田町にある竜泉寺では
金ヶ江三兵衛の過去帳が見つかり、それには、「月窓净心、上白川三兵衛霊明暦元年、乙末八月十一日」と書かれていることがわかった。これによって李参平が1655年に死亡したことも明らかになったのである。
以上のような関連文書と遺跡の確認によって、李餐平(金ヶ江三兵衛)が実
在したことが確認されたのである。彼が、豊臣秀吉による朝鮮侵攻に応じて出
島直茂に伴われて日本に渡り、多久家にしばらく預けられた
移住して磁石を発見し、磁器の製造を本格的に始めた人物であるこ
て陶磁工集団を統括する高い地位を得ていたことも明らかになった。
14代まで続いているそうだ。
陶磁器は・・・
高麗青磁の象嵌青磁が12世紀にうまれた。
12世紀くら16世紀にかけて九州の各地で多くの数が発見されている。これは九州が朝鮮側に最も近いと言うところで、たくさん九州が窓口になって輸入された。
この高麗時代になるまでは、日本の製陶技術に大きく左右する事はなかった。中国の陶磁器に対する憧れが高かったとされる。
ところが朝鮮時代になると、陶磁器文化が急激に高まる。
この時の朝鮮半島では、高麗青磁の全盛期が過ぎていた。
そして、「粉青沙器」の時代に入った。日本では
「三島手」
종
陶が始まる15世紀頃からは、主に朝鮮王朝の宮廷用に作られたこれ
滋器が、室町時代の日本の貴族や豪族の心をとらえるようになった
李朝前期の窯跡が集中していた朝鮮南部地域の慶尚道や全羅道の沿岸
、日本の商人が通商のため居住したり、あるいは、北部九州の豪族の#
物資を求めて来航していた。一部の海商はしばしば海賊行為に転じる(いわ
ゎこう
寇)こともあったため、同地域では長い間緊張状態が続いてい
、当時、陶磁器を媒介として北部九州と朝鮮南部沿海地域の間で
流が成立していたことも容易に想像できるところである。朝鮮南
から、陶工をはじめとする住民が日本の北部九州の沿岸地域に到来
制的に移住した可能性も十分考えられる。九州北部地域を中心に
風の陶器が作られた痕跡のある窯が発見されており、両地域の陶磁器を
た結びつきを物語っているのである。
16世紀の中頃になると、日本の茶の世界では、千利休ら堺の商人によって
せんの り きゅう
わびちゃ
「佗茶」が生み出され、茶道具の大名品といわれた「井戸」とよばれる高麗茶
碗が一躍脚光を浴びるようになる。
当時の朝鮮庶民の生活雑器であった素朴なこの井戸茶碗が、見た目の美しさ
だけでなく、静かでさりげない味わいや内に秘めた美しさを見い出すことをめ
ざした茶道の「佗」と「寂」の精神世界に最もふさわしい道具として、茶人たちの心を魅了したのである。この高麗井戸茶碗は、戦国時代の武将や禅僧あるいは豪商達から、しばしば領土の代わりに授けられるというほど、高い価値を持つ名器としてもてはやされた。
5.九州·山口地域の朝鮮系窯元
このような下地の上に、秀吉の朝鮮出兵を契機として朝鮮陶工たちの日本への集団連行が本格的に始まったのである。陶工を召し抱えた諸藩にとって、朝
鮮製陶の技術を持っている彼等の存在は経済的切り札でもあった。そのため、彼らが移り住んだ九州を中心に日本の陶磁文化は、一気に弾みをつけることになる。このようなブームを背景に、九州地域では、有田に限らず各地に朝鮮系の窯元が誕生することになる。









