懿陵 朝鮮第20代・景宗と継妃·宣懿王后の陵2024.10.20撮影
景宗(1688〜1724、在位 1720〜1724)は粛宗と玉山府大嬪張氏(禧嬪張)息子で、1690年(粛宗16)に王世子に冊立され、粛宗が死去すると王位に就いた。
後嗣がなかったため異母弟の延初君(第21代·英祖)を王世弟に冊立して政事を執らせせたが、このことにより老論と少論が激しく対立し、辛丑獄事と壬寅獄事の二度の獄事(=反逆や謀殺などの絡む事件)が起こった。
37歳の時に昌慶宮環翠亭で死去した。
宣懿王后魚氏(1705~1730)は咸原府院君·魚有亀の娘で、1718年(粛宗44)に景宗の2人目の王世子嬪に冊立され、景宗が即位すると王妃になった。景宗の死去にともない敬純王大妃となり、26歳の時に慶徳宮(現·慶熙宫)魚藻堂で死去した。
懿陵は1724年に景宗が死去した際、現在の場所に造られた。
それから6年後に宣懿王后が死去すると、景宗の陵の下方に宣懿王后の陵が造営された。
陵を上下に並べたのは、風水学上墓地の適地とされる「正穴」に封墳が収まるようにするためである。景宗と宣懿王后の封墳の周りにはそれぞれ文石人、武石人、長明灯、石牀(魂遊石)などがあり、曲墻は景宗の陵にのみめぐらされている。懿陵の武石人は鎧の下にヒョウ皮をまとっているのが特徴だが、そのうち景宗陵の武石人のヒョウ皮はらせん状に巻いた尾まで表現されている。また、宣懿王后陵の石虎も他の王陵のものと違って、長い尾を背中の上に置いている。

















