今年の春

韓国からのお客様をお迎えした時

 

日本語ペラペラの韓国人通訳さんはいたけれど

彼の身は一つ

あっちこっちで起こるトラブルに対応するだけで大変(お疲れ様でした⋯)

彼ばかりを頼ってはいられない

 

アンニョンハセヨ

カムサハムニダ

しか話せなかった私は

(しかも一瞬考える)

スマホの翻訳アプリを駆使して(ってほどじゃないけど)

日本語の話せないお客様たちとコミュニケーションをとった

 

それを見ていた70代のおじさんも

アプリを便利に使うようになった

おじさん曰く

「外国語が話せなくてもスマホがあれば大丈夫だね」

 

でも大丈夫じゃない場面があった

 

ある高齢の(といっても70代くらい?)の女性とコミュニケーションを取ろうとした時だ

翻訳アプリは私の伝えたいことを

文章でも音声でも韓国語に翻訳してくれた

しかし

老眼の彼女にスマホの文字は小さかった

音声を出してみたが

雑踏の中でスマホから流れる音声を聞き取るのは難しかったようだ

結局 通訳さんのお世話になった

 

 

そんなふうに

万能と思える文明の利器を頼っても

役に立たない場面はきっと多い

(使いこなせないし😆)

 

それよりも

外国語を習うというのは

ただ単に言葉を覚えて意思疎通を図るためだけではないと思うのだ

 

還暦を迎えた頭脳に

新しい言語は全然入ってこないかもしれない

でも

学んでいるのは言葉だけではない

その言葉が持っている文化・歴史・自然・国民性・その国の人々の暮らしその他諸々

 

その国の言葉を知ろうとする姿勢がまず大事なのではないかと思う

気取って言えば

その国に敬意を払う

ということだろうか

 

 

な〜んて書いてみたが

実はゆうべ

たまたま見かけた韓国の青春群像ドラマ

ぜ〜んぜん ひとっことも(一言も)聞き取れなかったのさ⋯

 

道のりは遠い⋯

遠すぎる⋯⋯

 

 

しかしめげずにこれからDuoling始めます