都庁がそんなに好きなのか?
と縁もゆかりもないこの建物に今朝もリセットさせられる。
よっぽど暇な人はともかく、普通の人は全くこれ以降読む必要はない、勝手ながら自分の忘備録。
じゃ、どっか他へメモっとけって話なんでここに書いとく。それだけ。
もちろん簡単ではないと予想はしていたものの、人間だから?予想以上の事も起こったりする。
予選はほぼほぼ大丈夫だろうと何となく考えていて、結果的には3人いけるだろうというところの一人がギリギリ予選通過。
予選通過するかしないかの線引きは明らかにトップの子達が見てる景色が違う。
結果を出さないといけない時に自分の実力を発揮できる。
やったらできるではなく。
必ずやる。
要するにこの技をどれぐらいの確率でできるかというと80%は確実に。
それはどういうことかというと80%の技が2つあると64%の確率となり技が増えれば増えるほどどーなるか、半分やん。
80%以上の確率で技ができることは凄いことに何だけれど、そこから見えてる景色と、99%以上の確率で技を上げてくる選手の見える景色は明らかに違っている。
そう、量より質とかいう問題ではなく、量も質も当たり前。
量と質に時間を倍に捉えられる頭も。
そうでなければ99%、やる時にやる!という実力は出せるはずがない。
身体を休める事は必要だけれど頭や心を休めるのではない。遊ぶなんて発想が根本的に違う。
その昔、紀元前かと思えるぐらい昔私もそんなトップの景色を見ていた時代があった。
見ようと思ってみた年齢ではなく、環境のチャンスから指導していただく先生の世界がそうだったから勝手に見えてる気になってた時代。
遊びに行くことなんて一年に1回あるかないか、学校も行けるときに行くものだと思っていた小学校。
延々と朝から起きて、食べたり飲んだり、寝たりしてる以外は弾き続けた時代。
そんなもんだ、自分だけではないみんなそうだと思っていたから他が気になる事もなく。
ところが、、
あれ?
そうではない?
世の中遊んだら楽しいことがあるのか?
と知り始めた中学時代から見るも無残な奈落の天国へ。
そう、楽しい事はいっぱいある。
楽チンな事はやろうと思えばすぐ手に入る。
そんな思春期の果ては大学受験もかろうじて小さい頃の貯金で受かったものの、もちろん第一希望の大学にはこれまた微妙に引っかからなかった。それも、微妙な感じの結果がトップの世界とは雲泥の差で、なんとか行ける大学があるというゆるい受け留め方。
それから早うん十年。毎日ゆるく楽しく過ごせるもんだからなんて幸せ。
ただ、この覚悟なくどっちも美味しいとこ採りをしようとすることは間違いなく不可能である。
そうでなければやってられないわ!どっちも。
トップアスリートは気づかない犠牲がある。
気づいたら多分落ちてしまうから完全に遊びなんて見えない環境に置くべき。
遊びというのはどこかに行くとか、だけではなく、心の遊びも含めて。
その根性、腹をくくれない中途半端なやつはこんなにやってるのに…って思うわね。かつての私がそうだったように。
予選通過できない原因がこれかどうかは定かではないけれど、今の景色を受け止めて、どうするのかは自分しかない、自分の選択だということかが大人になることかもね。
これがわかるのにこれまた何世紀かかったのかしらん。
なもんで若干20歳前後の子達がわかるはずはない。
だから、また明日から模索するんだろうなぁ。
結果が出せないのはメンタルかな~とか、ほんとに好きではないのかなとか。
ほんとにやりたいことなのかな~と。
心の隙間に入ってくる遊び(余白)の部分。
かといって今のこの五十路のなったことで問題があるかというと、あの大学受験失敗が投げれば間違いなくJAZZたるものに出会うこともなければ、大学に残してもらえる事もなければ、この仕事もないかなと思うと、選択するということはやはり、選ぶべくして選んでいるのが人生ということですね~。
だから、自分の見えてる視界で選択するんです。
ただみんな同じ視界ではないということを知ってると少し見えやすい気がする。



