日本語の表現は、擬音、擬態語(オノマトペ)が多くて、それって、わかる人しかわからないじゃない、という受け手を選ぶ、ある意味 選民主義なものだなぁ、と感じます。
外国語として日本語を勉強する人たちは、ここら辺、かなり苦労をされてるのでは、と思います。
たとえば、自分の経験的な話をすると、パソコンがグレードアップされて、スムーズに動くようなになったとき、 PCが一般化しだしたころは、「さくさく」動く、という言い方をしていましたが、「ぐりぐり」動く、(ゲームPC的な表現かな)から、「ヌルヌル」動く、という言い方に変わってきた感じがします。 PC雑誌を読んでいると、ますますその表現の多様性が広がって、なかなかついていけていません。
ティーンの表現がおじさんたちに 通用しないのは、そういう、言葉の選民主義的な本質が、あるのかもしれません。
「砂を噛むような思い」という表現(オノマトペではありませんが)を幼少のとき、先生が言われて、「どんな感じなんだろう」と 自分では、ピンと来ていなかった分だけ、不思議なものを感じました。
砂場や砂浜で転んでしまい、砂を実際に噛んでしまった、という経験は誰にでもあるでしょう。そのときに感じたことは、小さく見える砂粒が、歯の間では、思いのほか、大きく感じられ、がりがりという歯の間で鳴る音は、骨を伝って聞こえるため、かなり、荒々しい、粗野で、本当に、異質なものが口に入ってきた、という不快感に一杯になります。 (こどものときは、アサリやしじみがそのせいで嫌いでした。砂抜きしてあるといっても、かならず、がり!っとくるので)
「砂を噛む思い」とは、このように 力いっぱい気持の悪いことなのであろうか、 と 思ったりしていました。(でも納得いっているわけでないです)
でも、いまさら ネット国語辞書で調べてみたら (goo辞書)
「あじわいやおもしろみが、まったくないたとえ」 という いとも単純でわかりやすい 無味無臭な感じのこと、のようでした。
そんな 個性のないこと なんでしょうか? あんな 口のざらざらでごつごつで金属臭にちかい不味い不快感は、こんなさっぱり感のある意味で 一まとめに 消化されちゃうんでしょうか?
そうして、 砂を噛むような思い、って 自分にとっては、これかも、という感情的な経験を最近しました。
仕事の現場で、自分では、自分がきちんとできるはずの課題があって、それなりのことができるはずなのに、なぜか、それを自分にきちんとアサインされない、とか、その課題はは、こいつに任せる、みたいな、ことにならずに、すっと、目の前にあるのに、ボスが、自分の手から離さない。
そういうときに、自分は、なんだか、仕事ができない人、みたいなポジションにされちゃっているみたいなかんじがしたんです。
これは、歯がゆい、というか、悔しい、というか、はかない、というか。。。 そんな感情でした。
自分にとっては、これが、砂を噛むような思い、っていう表現が 一番ぴったりきたんです。
でも、そう表現しても、自分の外の人には、「あじわいやおもしろみが、まったくない」 としか、伝わらないのかなぁ。。。。