学校でも、部活でも、職場でも、必ず いるのが スネオくんです。 


どらえもんのスネオくん、という特定キャラではありません。


なんか、斜に構えている、というか。

所属するグループで、何かしよう、決めようとしているときに、一言居士的に、乗り気じゃないタイプ。


乗り気じゃない理由を聞いたら、もっともらしいことを言います。 結構、理路整然と。 それじゃ、何がいい?と、代替案を聞いてみます。


すると、当人は、教科書通りに、筋の通ったことをすらすらと言います。 しかしながら、原則論が前面に出されすぎていて、実際には、実現不可能な ユートピアンな内容のことが主張されます。 


そりゃ、無理だよ、と反論すると、「ほら、だから、嫌っていったんですよ」みたいな、けんもほろろな感じでそれ以上の歩み寄りができないくらいの切り捨てをくらいます。


このようなスネオ君の存在意義は、潔癖で、原則論者で、アンチ・テーゼな立場であること、です。


グループ全体のコンセンサスは、常に暗黙の裡で持っているべき、と信じている集団(つまり日本の学校や会社)には、歯止め役、みたいな、それなりの役割がある、と当人は思い込んでいます。まわりも、あまりことを荒たてないように、付かず離れず、みたいな感じで、お付き合いをします。 でも、この人があまりにもとっぴなので、周りの負担が高すぎると、とっとと積極的な排除(村八分)する行動をとるでしょう。


でも、同様な態度をとる人が、グループに常にコンセンサスがあるべきとは、考えない、自由な人たちの集団(日本の外)にいるときはどうなるでしょう?   


意味のないつまらん意見の持ち主 とされるだけです。 認められるわけでなく、かといって積極的な排除にもあわない。 面倒くさいからかかわらないのです。 つまり そのような集団の中では、誰にとっても箸にも棒にもかまらない存在になります。  まあ透明人間のようなものです。 


つまり、スネオ君は、存在を認知されなくなるのです。


言い方をかえれば、個人の存在は、相対的。 アンチ・テーゼなことばかり言っているスネオくんは、周りに気にかけてくれる人がいるからこそ、スネオでいられるのだなぁ、と 思うのです。 気に掛ける人がいないと、ただのさびしい一個人。