空気を読む、という言葉には、重いものを感じます。
NHK教育で、空気を読む、ということについて番組をやっていました。
東京03というコントグループが、駐在から帰ってきた社員が、日本の社員間に、ノリについていけない、みたいな寸劇を入れていましたが、ちょっと空気を読む、とは話が違う感じもしました。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110514-31-20991
また別の「ソングライターズ」という番組では、KREVAというラップミュージシャンが書いた詩の中から、 「以心伝心はありえない」という言葉がポロリ、と聞こえました。
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20110514-31-20988&pf=f
私自身、以心伝心は、あって当然とは思っていません。 当事者同士で物事の理解や関心ごと、文脈がかなりの密度で共有していないと 言わなくてもわかってもらえる、という状態にはなりえないわけで、そのような前提が存在することを当たり前、という設定での 現象だと思います。
あなたは俺じゃないし、私は、あなたの心の中をすべてお見通しにできる水晶玉を持っているわけでもない、だから、なぜ あなたの気持ちをいつもわかっていることを 前提にしているんだ!? と思うわけです。
空気を読む、にも、同様な 共有感を前提にした おしつけがましい価値観を感じます。
一方、仕事場では、いちいち細かいことを言わなくてもわかる人が 評価されます。 これこそ、あうんの呼吸? 以心伝心?
これは、仕事の環境だと、職責・立場によってミッションがはっきりしているからで、以心伝心に必要な共有すべき前提条件が、限定的で明確だからです。 単なる人間関係の場合だと、当人同士が経験するあらゆることを共有して 共通な文脈をつねに、築いておかなければなりません。これは、時間的にも、エネルギー的にも感情的にも不可能ですよ。「あなた」をもう一人自分の中に置かなければならないわけだし。
もうひとつ、この週末で読んだ日経BPの記事では、上司におかしいものはおかしい、というべきか、というテーマのものがありました。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110511/269479/?P=1
投稿の主張に対して 職場という組織で、空気を読まずに自己主張すべきか、というポイントが、論じられています。
このテーマでの私の答えは、 上司にたてつく、だけの人は、評価が上がりません。 当人が正しいと思うことを主張するだけでは、だめなのです。 上司の意見ややり方に対して、こちらの方がもっといいです、という代替案を提示できなければならない。そして、それを実現できる実行力も必要です。 これらが伴って初めて、認められるのです。
日常生活では、以心伝心を前提としたコミュニケーションの期待値は、期待される人にとってかなり不公平だと思っていますが、仕事では、言わなくてもやれる人材が求められて当然、と 矛盾と誤解されるようなことを二つ、自分の中では、抱えているんだなぁ、と ふと思った 週末でした。