幼少のころ学校では、テストや成績を気にして、テストの点数を上げるために、しこしこ いろいろやっているタイプを「点取り虫」 といっていました。


ただテストのために勉強するのならいいけど、だんだんとそれが、山カンの張り合いや、マークシート方式のテストでは、回答の並ぶ順番で、次の回答を選び方、みたいな、試験のテクニック にまで、一生懸命研究する人もいたり。


高校・大学の受験勉強になると、傾向と対策 と称して、質問されやすい課題を重点的に暗記する、みたいなこともやりましたし、先生も、「テストに出るポイントだ」 という感じで、テストで点を取ることを重視している生徒向けの発言や指導もあったり。


そういう、点取り虫的な勉強が、本当に嫌でした。  自分が興味をもって新しい知識を獲得し 課題に関して色々と考える、というのが勉強であるべきだ、と思っていました。


例えば歴史。年号や主要人物やイベントや施策や新制度に関するキーワードを年表とともにすべて暗記する。 それだけでそこそこ点は取れます。


だから自分は、歴史は好きだけど、歴史のテストは、からっきし、でした。


でも、今になって思いました。  あれはあれで、意義があったんだ、ということ。


つまり制度としての勉強と受験は、戦略構築とスキルを身につけなければ課題をクリアできない、ということを経験することである、ということです。


自分が 自分勝手にこうあるべき、と考えている「勉強」は、課題を自分で設定してもっと自由な議論や研究を行う環境が整った際にやればいいのです。


直面する状況や課題に対して、攻略のための戦略を考え、今まで獲得したスキルを用いて、状況を打破したり、目標に近づいたりしてゆくこと、が 生きていく中で大切だからです。


まあ受験勉強は、受験対策に関する手練手管が、既製品として外部から調達できるので、自分で戦略を立てて必要なスキルを見極めて、身につける、という努力が必要ない分だけ 安易ではありますが。


試験勉強に取り組む 学友を、点取り虫だなぁ!と揶揄していた自分こそ、自分の勝手な美徳感にしがみついて、自分の成長機会に対して、半分斜に構えていたんだ、と 気が付きました。


つづく。。。