こどものときに、学級会では、何にしろ 多数決で決まっていた ように覚えています。

これが民主主義なんだ!と先生。少数派の意見も尊重するけど、多数決で決めたことは、みんなで守りましょう、というルールが前提。


でも、学級会ではルールを守れなかった人をつるしあげる場でもあったような記憶もあります。 

「XXXくんは、掃除の時間に ほうきと雑巾で野球をしていました。ふまじめでよくないと思います」どいう動議がだされたり。


それをもとに討論が進むんですが、結局 非難する側は当人たちのこれまでの悪行をさらに暴露するなどして、心証をどんどん悪くし、非難される側は、のらりくらい言い訳をする側みたいな 魔女裁判のような形になり、結局、悪い奴が悪いから謝罪して行動を改めるよう約束させる、という落とし所になってしまうパターン。 ありがちでした。


この一連のプロセスで、今さらこの齢になって、違和感を覚えるのは、約束事を守れなかった人物の断罪のみに参加者の焦点があたり、よい、悪いの二極でしか判断されないこと。


大多数の他人の意見が絶対的な社会価値であり、自分の相対的立場を決定する、みたいな構図になっているようで、こうやって考えると「個人の主体性」はあまり尊重されないような小宇宙になっています。 


学級会は、どうやってクラスの中の問題行動が前向きなものに変わっていくか、という問題解決のための話し合いの場であり、期待すべき成果は、目標設定と実現のためのアクションプラン作成、ではないのでしょうか?


自分の所属するグループに問題があるときに、問題の本質を把握し、問題解決のためになにをすべきかを考え計画し実行する、という「問題解決力」は、厳しい現代・現実の中で 個人が生きていくには必要なスキルでありますし、それを子供の時から練習を積んで身につけさせておく、ということが、新しい日本の世代の育て方ではないかと最近考えています。  


どうも、問題の先送りが解決策であると勘違いする大人が多いような気がするので。