天木さんも精力的ですね。
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誰が名づけた言葉かは知らないが、いつの間にか限界集落という言葉が
メディアに目につくようになった。
過疎化や少子化によって人口の半分以上が65歳以上の高齢者となり、社会的共同生活の維持が困難になってしまった集落、というような意味らしい。
いかにも官僚的な冷たい言葉だ。物事を効率や合理性で片付けてしまう発想から生まれた言葉だ。
サンデー毎日5月3日号に、限界集落をヒッチハイクや車で巡りながら、現地の農家に寝泊りし、その土地の魅力を掘り起こしてブログで発信している若者の事を書いた記事があった。
無農薬・循環型の農業に従事する夫婦との出会いや、里山の豊富な水資源を利用してエネルギーを自給する取り組みを始めた人、自家栽培の米と大豆を、昔ながらのかまどで炊事する人。
「住むこと、食べることを自分で出来れば、外部環境に依存しない自立した生活が送れる、限界集落にはそんな思想が隠れています・・・お金を得るために言いたい事が言えなかったり、自分の人生に筋を通せないことがある。
お金はなくても心から喜ぶ暮らしができる・・・」
そのような話に頷きながらその若者は旅を続けるという。
この記事を読んで、私は、少し前に読んだもう一つの記事を思い出した。
その記事とは月刊誌「創」4月号にあった大川豊の記事である。
大川豊とは、就職試験で153社に落とされたため、自ら大川興業を設立してその総裁におさまり、154番目のその会社の合格内定をみずからの手で出した、と称するギャグ男である。
その大川総裁が、ある限界集落を訪れた時のレポートを次のように書いていた。
「・・・長野県の栄村に行き、山田義輝さんという、なんと90歳の元気バリバリのおじいさんに会った・・・さっそく栄村で有名な田直しの話を聞いた。国の補助事業だと30アール以上のたんぼでないと補助金は出ないが、勾配の激しい山肌にあるたんぼはそんなに広くはつくれない。それに、そんな広いたんぼが欲しいわけではない。田植え機や刈り取り機が通れるだけの広さでよかった。それに国の補助を受けると、村もお金を出さなければならない。
そこでパワーショベルの達人と言われる青年と契約した。10アールあたり200万円弱かかり、農家と村の負担がそれぞれ50万円ずつかかるところを、自分たちでやることで、10アール40万円にコストがさがり、農家の負担も20万円で済んだ・・・
山田さんは道直しもしている。国の補助を受けるには道幅6-7メートルでないと規格が通らないし、土地買収や家屋の移転、さらには国土交通省への陳情にも手間がかかる。そこで、冬のあいだ除雪作業をやってもらった5人の作業員を通年契約にしてもらい、村職員と建設班をつくって、一緒にブルドーザーを動かして、道路を広げた・・・補助事業でやると、1平米あたり3・5万円のところ、1万円。3割以下のコストですんだ。しかも10倍以上のスピードで直してしまった・・・」
政府に頼らず自助努力でここまでできるのだ。官僚行政に頼る事が、いかに割高で不自由であるか、ということだ。
大川総裁のレポートは医療や観光誘致にまで及ぶが、長くなるのでここでやめる。しかし大川総裁の次の言葉だけは紹介しておきたい。
「・・・若者とお年寄りの元気を合体させたい。情報を若者や他の集落に伝える事によって、『俺たちもやろう』となる。非常に高い可能性を感じる。
限界集落というよりも、明るく楽しい無限界集落をつくりあげていこうじゃないか・・・この山の多い国で、知恵と勇気で頑張ってきた限界集落に派遣村を作ってほしい。おばあちゃんの煮物もおいしいし・・・」
この最後の煮物のところだけ少し説明がいる。大川総裁が山田義輝おじいちゃんと話している時に、突然おしかけた大川総裁たちのために、おばあちゃんが煮物をつくってくれたという。その時の状況を大川は次の
ようにほほえましく描写している。
「・・・『だべでけ』と言うんだけど、『いぞいでづぐっだからうまぐね』
とも言う。一口食べると、非常においしく、『うまい!』と言いながらながら、おじいちゃんに道路の話を訊いていると、『やっぱり、いぞいでづぐっだがらうまぐね』と入ってくる。『そんなことないですよ。おいしいです。僕たちは
外食ばかりですからおいしいです!』、『でも、やっぱり、ダメだ。
いぞいでづぐっだから』、と絶妙の間で入ってくる。
家の周辺を案内してもらっている時も、あばあちゃんは、普通よくお年寄りが押しているカートではなく、クロネコヤマトとか宅急便の人が使うような、ものすごくでかい台車で、ものすごく大きな醤油を運んでいた。
『おばーちゃん、僕が運びますからーーーー』と思わず叫んでしまったくらい、デカい台車とデカい醤油だった。その醤油を使って作ってくれていた(煮物だった)のだ・・・」
限界村で生きている人たちには間違いなく厳しい生活を強いられている。
必死で生きている。しかしそこには生活の知恵と喜びがある。生きる充実感がある。それこそが本来の人間の生きる姿ではないのか。
永田町と霞ヶ関で作り出されるこの国の政策にははるかに及ばない温かさがある。
我々の税金の分捕り合戦で明け暮れる政治家や官僚は自らを恥じるべきだ。
政治などなくても人々は立派に生きていけるという事を思い知るべきだ。
(完)