- 第一の優先は正しい食物の適切な供給である。
- 第二に、すべての者のための適切な住宅や宿である。
- 第三に、普遍的権利としての健康管理と教育である。
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マイトレーヤ最初の助言
第一の優先事項は飢えたる何百万の人々を救うことです。これは緊急を要します。豊かな世界の中にあって何百万の人々が飢え死にしているという事実は人間性に対する冒涜であり、マイトレーヤはこれを罪悪と呼びます。これが私たちの直中にある癌です。マイトレーヤが公に出現されるとき、彼はまず飢えたる何百万の人々を救済するための緊急援助の必要を訴えるでしょう。そしてその呼びかけへの反応として、かつてない規模での援助計画が実行されることになるでしょう。
飢餓の問題が解消されたら、その後の第一の優先事項はこの惑星を救うことと持続可能な経済を可能にする政治的、経済的な機構の変革でしょう。
世界は今、資源の誤用に深く苦しんでいます。私たちはこの惑星を非常に汚染してきたため、私たち自身がつくり出した汚染から免れる人々は、今日世界におそらく覚者以外には一人としていないでしょう。世界の大気、陸地、海洋は、私たちが私たち自身の種族と下層王国(動物界、植物界、鉱物界)を本当に危うくするほどまでに汚染されています。これらは正されなければならない変化であり、これらの汚染物質の結果として私たちの免疫組織に変化が起こっています。世界の変革には徹底した変革が必要です。そのような変革は起こるでしょう。
現在の世界の経済制度の崩壊
今日私たちは非常に分裂した世界に生きています。すなわち,先進国と開発途上国という二つのグループがあり、人類の3分の1を占める先進国の人々が世界の食糧の4分の3と資源の8割以上を消費している一方で、第三世界と呼ばれる国々は残りの資源でやっていかなければなりません。その結果、世界には一人当たり10%の余剰食糧があるにもかかわらず、第三世界ではこの瞬間にも数百万もの人々が飢え死にしています。この世界資源の分配のとてつもない不均衡が世界の様々な問題の根源にあり、そこから生まれる緊張はやがて第三次世界大戦につながる危険を孕んでいます。先進諸国はいつまでも第三世界が今の状態に我慢していると期待することはできません。
現在世界の国々の新しい信条は“市場のフォース”に基づく商業主義であり、それは競争と貪欲に基づくものです。マイトレーヤの見解では、商業主義とは、他の人々が飢えているのにお金を儲けることであり、彼は市場のフォースを“悪の勢力”と呼びます。なぜなら、それはその機構そのものの中に不公平を抱えており、何百万もの人々の生活を犠牲にして、ごく少数の人々に豊かな生活をもたらすからです。人々は経済的効率の名の下に文字通り死に追いやられてきました。商業主義の論理が社会的福利をも蝕んでいます。
分かち合いの原則
それぞれの国家は、その環境と人口等によって、様々な必要条件を持っています。豊かな国々は自国の必要を超えた多くの食糧、原料、エネルギー、テクノロジーを支配して、その余剰分を売ろうとし、貧しい国々(その多くは旧植民地国)は自国に必要な食糧さえ自給できず、その結果世界で何百万もの人々が飢え死にしています。現在、世界には一人当たり10%の余剰食糧が存在するのです。この人々は飢える必要はないのです。「倉庫の中で大量に腐敗している食物を欠くために、多くの者が惨めに死んでいる」とマイトレーヤは、語っています。
公平な分配の基本理念、つまり分かち合いの原則の基本理念は、人類は国家や民族の違いを超えた一つのグループであり、食糧、資源、エネルギー、科学技術、教育施設はすべての人々に属するものだということです。
具体的には、各国は国民の生活に基本的に必要とされる食糧、資源、エネルギーなどの明細目録を作成し、所有する物資の中で必要以上の余剰分を共通の信託として預けることを要請されるでしょう。こうして世界資源の「ケーキ」の大きさが知られます。そしてその資源のプールの中から、各々の国家の必要に応じて、公平に分配されるでしょう。資源の分配のみを扱う新しい国連機関が、覚者か第三段階以上のイニシエート の監督下に形成されるでしょう。
自己(真我)実現
私たちは真我 であり、すなわち不滅の存在であり、私たちが経験する困難や苦難は真我でないところのものと自分を同一認することから生じるのです。
マイトレーヤは言われます、「自分自身に『私は誰か』と問いなさい。そうすれば肉体や心や生気と自分を同一認している自分に気づくでしょう」と。「真我のみが大切である。私たちが心に正直であり、生気に誠実であり、肉体に正しい食物を与え、無執着を実践するならば、私たちは自分の真我を知るだろう」とマイトレーヤは言われます。
もし私たちが裡なる真我を体験して、自分が心(マインド)や生気(スピリット)や肉体とはまったく分離した不滅の存在であることを知るようになるとき、私たちはこれらの主の宮殿(心、生気、肉体)を創造的に、認識をもって利用することを学ぶでしょう。真我を知るとき、他の人々を目覚めさせることができるのです。
心の正直さ
心の正直さというのは、マイトレーヤによれば、単に嘘をつかないこと、私たちがいう“正直である”ということを意味しているのではありません。もちろんそれも含まれますが、本質的には条件付けられていない心を意味しています。様々なイデオロギーに条件付けられていない心(マインド)、それ自体に正直な心を持つということは、一瞬、一瞬、自由でオープンな人生を経験することです。それ自体を完全に、純粋に、自然に、条件付けなしに表現することです。条件付けられていない心のみが自由を知ることができます。つまり、それは真実な言動と思考を行う能力ということになります。
生気の誠実さ
マイトレーヤが言われる生気の意味とは、エネルギー の総体、つまり、アストラル/感情エネルギーとエーテルエネルギー、生命の気、個人のパワー、あるいは“シャクティ”をすべて含めたものです。
生気(スピリット)の誠実さというのは、リアリティー(実体)を歪曲なしに見ることを意味します。すべての人間が、多かれ少なかれ、幻覚(イリュージョン )の中で生活しています。その幻覚が物質界にあるときには、それをマヤと呼び、幻覚が感情、アストラル界 にあるときはグラマー と呼びます。幻覚がメンタル界にあるときには、イリュージョンと呼びます。しかしこれらは皆、イリュージョンの異なった側面です。生気(スピリット)に誠実であるということは、グラマーなしに情緒的経験に反応することを意味します、つまり情緒感情界のグラマー(幻覚)から自由であることです。人生経験における通常のあり方としては率直で、開放的で、自然で、包括性を持つこと。つまり全体的に誠実な人間であることです。
無執着
無執着とは、人が自分を肉体(物質面)と心(思考面)と生気(エネルギーや力の面)と同一認しなくなっていく過程です。あなたが心の正直さ、生気の誠実さを持つようになればなるほど、ますます無執着になれるのです。そして無執着になればなる程、あなたの心は、ますます条件付けられなくなり、アストラル界のグラマーに条件付けられることも少なくなります。これら三つの面(心の正直、生気の誠実、無執着)は一緒に働きます。
無執着ということは、関心を持たないことではありません。関心を持っており、しかも同時に、それらの関心が活動を妨げることなしに機能できることです。例えば、非常に関心の高い人々、マザー・テレサのような人々が持っているものは関心であり、奉仕したいという心(ハート)からの反応であり、そして同時に奉仕を実施することができるだけの無執着な心なのです。したがって、苦難を直視し、それらに背を向けずにそれを自分自身の苦難として非常に強力に体験するために奉仕するのですが、それと同時に、自分の感情的な反応にとらわれないのです。多くの人は自分の感情を抑圧しますが、感情を抑圧することは感情に溺れるのと同じくらい悪いことです。感情に溺れず、また押さえつけることなく、ただそれを見ること、それと自分を同一認しないことを学ばなければなりません。
正しい関係
無害であることが基本的な人間関係であり、これは非常に実際的な機能を持ちます。無害であることは単なる良いアイデアというだけではなく、絶対必要なことであり、そうでなければ私たちは自分自身を害することになるでしょう。私たちのすべての思考と行為が原因を始動させ、これらの原因から発する結果が、良きにつけ、悪しきにつけ、私たちの人生をつくります。苦痛なものであれ、快いものであれ、私たち自身が、単に過去世においてのみではなく、先週、昨日、今この瞬間、一瞬一瞬、自分の思考と行動を通して、自分自身の人生の経験を創始しているのです。それは役に立つものであることも、非常に破壊的であることもあり得ます。もし破壊的であれば、自分自身にとってのみではなく、社会にとっても破壊的です。
正しい人間関係ということは、私たちがお互いを害することなく共に生き、各人の存在(裡なる神)が、それぞれの方法でそれぞれの時期に、誰からの干渉もなしに、成長し開花し、顕示されるようにすることです。
あなた自身のままでありなさい
マイトレーヤは言われます。「あなたはあなた自身のままでありなさい。人の後に従ってはいけない。自分自身に対する尊敬の念、尊厳を他人に放棄してはならない。もし本来の自分ではなく他人に従うならば、自分の輝きを失い、個性の光を反映することはできない。その光なしには、人生における進歩はない」と。
さらにマイトレーヤは、「わたしを崇拝してはならない。もしわたしを崇拝するならば、あなたはあなた自身を低めようとしている。わたしはこれを欲しない。わたしはあなたに同等であって欲しい。あなたは至高なる存在の閃光である。あなたはわたしよりも低いと考えてはならない」と言われます。
こうであればすべて納得できるしとっても良いのですが、誰もが考える一般的なことだし人智を超えてないのでは?
救世主出現のシナリオは期待しないほうがよいかと・・・。
大宣言の日って?
2008年~2009年の冬にフランス・イギリス辺りから発生するようですが如何に・・・。
(ヤスの備忘録)
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