渥美 「それに比べりゃ、軍隊は天国じゃ」


長門 「こんなに絞られてか?」


渥美 「ああ、雨降っても三度のメシ食えるけんのお


     天国じゃ、天国じゃ・・・・」


長門 「おっ、はよ行かんと絞られる」


渥美 「まあ、ゆっくりせいや、天国じゃけんのお」





(追)

天皇陛下や戦争をテーマにしたものではないです。

その時代を生きた一人の男の映画です。

続編もあります。


わたしの記憶では、お笑い芸人から役者に転向し始めたころの渥美清は

「こうゆう役をやりたかったんだ!」

と言っています。

戦中・戦後の動乱の世を経て、アメ横のヤミ市を見て過ごした男の行き着いた心境とは・・・。


野村芳太郎監督は

「渥美さんのように優しい目と怖い目を表現できる役者はいない」

と評しています。


渥美清(wikipedia)

1928年(昭和3年)3月10日に、上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校 に入学。1936年、一家で板橋区 志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校 へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童 であったという。加えて、病弱でもあり小児腎臓炎小児関節炎膀胱カタル 等の様々な病を患っていた。その為、学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオ に耳を傾け徳川夢声 や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。

1940年に、板橋城山高等小学校 に入学。1942年、巣鴨中学校 に入学するが、学徒動員 で板橋の軍需工場 へ駆り出される。1945年、同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲 で自宅が被災し焼け出される。

卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋 の手伝いもしていた。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。