「 和を以って貴しと為せ 」
聖徳太子(574-622)は推古天皇の摂政として活躍しました。
大きな事績は以下のとおりです。
①崇仏論争で蘇我馬子とともに戦い、仏教興隆の基盤を形成しました。
②603年に冠位十二階、604年に憲法十七条を制定しました。
③法隆寺・四天王寺を造営しました。
このころは、「日本」という国名も定かではなく、年号も制定されていません。
律令国家体制の整備が始まるのも、およそ半世紀後のことです。
律令体制が本格的に運用され、中央集権国家にふさわしい本格的な都が造営されるのは710年のことです。
そのとき、[歴史]が記述されました。『古事記』と『日本書紀』です。
そこでは、天皇はアマテラス以来の神々の系譜に連なる高貴な血筋とされ、異国の宗教である仏教との関係は明確にされませんでした。
奈良時代になると、鎮護国家の思想に基づき東大寺を中心に国分寺・国分尼寺が各国に建てられ、仏教は国家宗教的な色合いを帯びてきます。
このとき、天皇(王法)と仏教(仏法)との関係が問題になっていきます。
そこで注目されたのは、天皇家の血筋をひきながら仏法の導入に主導的な力を果たした聖徳太子です。
8世紀後半には,絵伝が制作され、善男善女に作善を勧める法師が現れたようです。
その後も聖徳太子信仰は広まっていき、院政期には現在・未来に寿福をもたらす観音の化身として定着しました。
現在残っている聖徳太子絵伝のもっとも古いものは、延久元年(1069)法隆寺東院絵殿に秦致貞(はたのむねさだ)が描いた障子絵とされています。
鎌倉時代になると、太子信仰は隆盛の一途をたどり、親鸞をはじめとして,鎌倉時代新仏教の祖師たちが日本仏教の祖と仰いで信奉するに至ります。
庶民は、死者の追善や浄土への引摂を願いました。為政者は、王法仏法相即の体現者として信仰の対象としました。
聖徳太子の夢
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/shotoku/taishinoyume.htm
