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あくびを噛み殺し寝ぼけ眼を擦る私は、まるで顔を洗う猫みたいだななんてこと思いながら、大学への通学用として買ったノースフェイスのリュックにノーパソ代わりのiPadと気持ち程度の化粧ポーチ、それとバッテリー類と2日分の着替えを適当に詰めて品川駅の駅前広場に突っ立っていた。何日の予定なのかわからないけれど、足りなくなったらユニクロで買い足せばなんとかなるだろうと結論づけた私は、愛用のzippoのフタをポケットの中でカチカチ開け閉めしながら、これでいくつもヒンジをダメにしてきたんだけどやめられないんだよなぁとか、そもそも論タバコもやめなきゃだよなぁとか、そんなことを考えていた。zippoとは反対のポケットからくしゃくしゃのタバコを一本取り出し、息を吸いながら点火、紫煙を揺らす。柔らかなバニラの香りで頭の中がすっと空になる感覚が身体に走る、これに抗えない限り禁煙は無理だなって諦めを吐き出す。その煙が曇り空の一部になるのを見届けた先に、灰色の彼の影が重なった。
急ぐわけでもなく、かと言ってゆっくりすぎるわけでもなくこちらに向かって歩いてくる彼の姿は、記憶の中の彼から少し痩せたように見える。なんだか、世の中とか社会とかがこぞって彼から何か色々なものを吸い取っているようだ。「この世界に深く深く根を張り、幹を太く太く持ち、そうやって人々は強く生きていくことができる」、そんな言葉で回っているこの世界自体が欺瞞で溢れているように感じるほどに、これまで好き勝手に奪われた彼らが反旗を翻し、その手始めに彼から奪っていると感じられるほどに。その反面彼の目に泳ぐ光だけがあの頃よりも鋭さを保っていて、それがかえって私の心を波立たせた。
「美味そうなの吸ってんな、俺にもくれよ」
「嫌になるくらい爽やかな皮肉だね」
残り一本だけ入った箱ごと彼に投げ渡し、タバコを咥えた彼の口元に火を運ぶ。じじ、と鈍い音を鳴らしながら点いた小さな火種が彼の心の臓へと歩みを進めるたび、彼は幸せそうな顔をしたまま胸を上下させる。その動きだけが彼が今ここに存在する唯一の証明のように思えた。
「……煙で幸せ感じているところ申し訳ねんだけど、それで、今日からどこまで行くつもりなの」
「ふー…、あ、言ってなかったけか。そうだな、言ってもいいけど…、言わない方が面白いから秘密ってことで」
「はぁ?」
あんたは面白いのかもしれないけど私にとってはただただ不安しか残らないんですけどどうしてくれるんですかという不満は、燃え殻の火と一緒に潰し消されてしまった。もうこいつには一生火もタバコも貸すものか、と決意を新たにしながら、重くも軽くもないカバンを背負い直す。見上げた空はやっぱりどんよりしていて、そういやどこかで天気と気分はリンクしている、みたいな記事を読んだことがあることをぼんやり思い出した。気圧が下がることで自律神経が乱れることが原因だとかなんとか。日照時間もそこに関係しているとかかんとか。職業柄どうでもいい何にも役に立たないような知識をたらふく抱えているわけだが、こいつの適当さやいい加減さに有用なものは何も出てこなかった。ああなんて無駄な知識。もしくは私のサーチ能力が低いせいか。頭の中にグーグルが欲しい。昨日から無い物ねだりばかりだ。
「ぼーっとすんなぁ、おいてくぞぉ」
「もう一本吸わせてよ」
もう行く先教えられていない時点でおいていかれてるよ、そんなことも気付いてないんだろうな。そんな呆れを吐き出したくて、背負い直したリュックがずれ落ちるのに気をつけながらポケットの中を探る。ヒンジの緩いzippoを手に取りその相棒を触ろうとして、最後の一本をあいつに渡したのを思い出し短く舌打ちをした。ちっ。本当にこいつとは相性が良くない。昨日のタイミングの良さとは打って変わったコウモリも驚きの手のひら返し、だがまあ人の心理も世と同じで諸行無常だろう。そもそもこんなやつと合わせること自体無理な話だ。面白さや楽しさを第一に求め、何かに没頭すると我を忘れ、ひどくマイペース。他人に合わせて行動するなんて考えは特になく、するとしてもそれは理論的に考えた上でそこに得があるから。そして、彼は常に正しい。圧倒的なまでに。誰も寄せつけないし寄ろうとしない。そんな正しさ。
だから、あの小雨の降るジメジメした高三の六月は、今でも私の記憶の中で鮮明に残っている。傘を叩く雨の音とアスファルトが濡れた匂い、はねた雨で少し湿ったズボンの裾と黒のハイソックス。彼のスニーカーと私のローファーはプール開きではしゃいだあとの小学生みたいだった。右手の傘の柄と左手のペットボトルに結露が伝う感覚。肌にベタつく空気と、鼓膜を震わした彼の声。初めて告げられた別れの言葉と、その理不尽さ。曇り空の灰色が視界を埋めていき、その真ん中で遠ざかっていく彼の背中。
ああ、これだから嫌なんだ。どうでもいい知識に埋め尽くされた脳みそと、中途半端に色々な情報を繋げてしまうサーチ能力。もっといい情報で頭の中を塗っておくべきだった。グーグル先生は採用しない方がいいだろう。これ以上、辛い思い出をサーチしたくないから。滲み始めた視界の輪郭を手の甲で拭いながら、彼の後ろ姿を追おうとした時、
「なんで猫が顔を洗う真似してんの?雨だから?」
突然振り向いたあいつは呑気にそんなこと聞いてきた。
まったく違う表情、感情なのに、表現が被ってしまうなんてやっぱり相性が悪い。「なんでもないわよ」と呟きながら、あの日を思い出してしまうから曇り空は嫌いだな、なんて思い直していた。
