四大美女考の最後は、【王昭君(オウショウクン)】です。
王昭君は、日本では、悲劇の美女として知られています。
日本に伝わった話では、王昭君は、運悪く、後宮(皇帝のハーレムのような所)の女性三千人の中から選ばれて、異民族に嫁がされます。
しかし、その美しさは、凄まじいもので、嫁入りの途中、砂漠を通る王昭君を見て、美しさに目がくらんだ雁が、空から落ちてきたと言うほどの美しさです。
だから、王昭君は【落雁美人】とも呼ばれています。
又、一説によると、ある日、王昭君が、川に落した真珠を拾いに、川に入った所、水がきれいに澄んで、辺りにいい香りが漂ったそうです。
その故事ににちなんで、その後、その谷川が、香渓と呼ばれるようになりました。
まことに、超弩級の美人です。
私は、王昭君の欠点は読んだ事も、聞いた事もありません。
私が、今まで読んだ、どの中国の史書にも、王将君の欠点は書いていませんでした。
それに、歴史好きの中国の友人からも、王昭君の欠点は聞いた事がありません。
それどころか、王昭君は気位が高く、凛とした、誇り高い人だったと言われています。
ある時、漢の元帝が、匈奴の呼漢邪単于(コカンヤゼンウ・・・匈奴の王)に、後宮の女性を、一人嫁にやると言う約束をしました。
そのため、肖像画付きの書類選考で、候補者選びをする事にして、絵師に後宮の全女性の肖像画を書かせました。
元帝の考えでは、肖像画を見て、その中の一番ブスを、呼漢邪単于の嫁にやるつもりでした。
皇帝のくせに、何というみみっちい事を考えたのでしょう。
その話が伝わり、後宮の美女三千人は、実際以上に美人に書いてもらおうと、こぞって絵師に賄賂を贈りました。
しかし、王昭君は、自分の容姿に絶対の自信を持っていたので、賄賂を贈って実際より美しく描いてもらうような事は、王昭君のプライドが許しません。
王昭君は、とうとう絵師に賄賂を贈りませんでした。
賄賂をもらい損ねた絵師は、怒って、王昭君を酷いブスに描きました。
その結果、王昭君は、呼漢邪単于の嫁の候補に選ばれたと言う訳です。
後宮の女性三千人内の、二千九百九十九人から、賄賂を受け取って大儲けしたくせに、たった一人から賄賂をもらえなかったからと言って怒るとは、何と言う強欲な絵師でしょうか。
(蛇足ながら、三千人と言うのは、中国式表現では、とてもたくさんと言う意味で、数字の三千ではありません。だから、二千九百九十九人と言うのも、単なる冗談です。)
玄帝は、嫁ぐ前に、別れを告げに来た王昭君を見て、その美貌に圧倒されました。
そして、匈奴の嫁にやるのが、惜しくなり、なんとかして、王昭君を引きとめようと考えました。
しかし、呼漢邪単于と約束をしてしまった以上、仕方がありません。
王昭君を引きとめれば、外交上の問題になり、漢の信用を落としてしまいます。
元帝は、地団太を踏んで悔しがりました。
もちろん、ウソの画を書いた絵師は、すぐに処罰されました。
しかし、何と言う、未練で、馬鹿な皇帝でしょう。
その後、未開の匈奴に嫁いでいった、王昭君は、毎日、漢の都、長安の方角を見て、泣き暮らしたと言う事です。
また、一説によれば、呼漢邪単于の死後、匈奴の掟に従って、次の単于になった義理の息子に嫁がなければならなくなった時、自分の運命に絶望して、毒を仰いて自殺したと、伝えられています。
このように、民間伝承や世俗本では、王昭君を、ことさら悲劇のヒロインに仕立てています。
そして、王昭君の悲劇の物語は、今までにも、幾度となく演劇で演じられてきました。
だから、広く世間に、悲運の王昭君が定着したのです。
これに対して、班固(ハンコ)が書いた正史、【漢書】には、違った事が書かれています。
漢書には、匈奴の地に嫁いでいった王昭君は、その美貌と、誇り高い性格のため、呼漢邪単于からは大事にされ、匈奴の民からは尊敬され、充実した一生を過ごしたと書かれています。
王昭君は、呼漢邪単于亡きあと、匈奴の掟に従い、義理の息子の単于の妻になり、さらに二人の子をもうけました。
そして、夫と匈奴の民に惜しまれながら、その数奇で幸せな一生を終えました。
冬になって、匈奴の草原が枯れても、王昭君の墓にだけは、年中青い草が生えているので、【青冢(セイチョウ。青塚と同じ)】と呼ばれて、匈奴の民の参拝が絶えなかったと言う事です。
まさに、王昭君の矜持と心意気を感じさせる話ではありませんか。
もし、王昭君が、自分の運命に悲観して、毎日亡き暮らしていたのなら、そして、匈奴の掟に従う事を拒んで、服毒自殺をしたのなら、【青冢】伝説が出来るわけがないし、匈奴の人達が【青冢】に参るわけがありません。
また、一説によれば、後宮にあまりにも美女が多いため、いちいち部屋を訪ねて、毎晩のパートナー選びをするのが億劫なので、ずぼらな元帝は、美女が後宮に入る時には、必ず肖像画を画かせ、その絵を見て、毎晩の相手を決めていたのだそうです。
だから、後宮の美女たちは、後宮に入る時、一日も早く皇帝の目に留まるように、絵師に賄賂を贈って、実際以上に美しく画いてもらいました。
しかし、誇り高い王昭君は、賄賂を送らなかったので、腹を立てた絵師は、王昭君をひどい不美人に画きました。
そんな事とは知らない王昭君は、いつまでたっても元帝からお呼びがかからないので、すっかり悲観してしまいました。
そんな時、匈奴への嫁入りの話が聞こえて来ました。
自分が置かれた現実に失望していた王昭君は、みずから志願して、新天地を求めて匈奴へ行きました。
こちらの方が、実際に即していると思われます。
最初の話のように、匈奴と約束した後、絵師が一人で、三千枚もの肖像画を書くのには、どう考えても時間的にも無理です
やはり、後宮に入る時に肖像画を書かせていた、と言う方が自然です。
それに、玄帝自身が各部屋を訪ねて、パートナーを選んでいたのなら、いくら後宮に三千人の美女がいたとはいえ、【落雁美人】とまで称えられた王昭君が、元帝の目に留まらないはずがありません。
このように、中国の物語は、肖像画を描いた時期が違うだけで、全く正反対の物語を作り出します。
これが、中国の物語のおもしろいところです。
王昭君の墓、【青冢】についても、別の説がありますが、余り長くなるので割愛します。
考えて見ると、中国四大美女のうち、ただ一人、王昭君だけは、国を滅ぼす事もなく、かえって匈奴の地に文明の光を当て、匈奴の民から慕われながら、天寿を全うした美女です。
突然の悲運に負けることなく、みずからの運命に決然と対決して、それを克服した王昭君。
また、別の説によれば、新天地を求めて、みずから志願して、匈奴の地へ行った王昭君。
しずれにしても、王昭君こそ、美貌と、誇りと、心の強さを兼ね備えた、理想の女性ではないでしょうか。
余談ですが、中国の皇帝には、後宮に三千人もの美人がいたそうです。
そして、美女達の中から、毎晩のパートナーを選ぶのに、苦労したようです。
元帝のように、肖像画で選ぶ皇帝もいたし、司馬炎(晋の皇帝)などは、横着にも、ひつじに引かせた車に乗り、ひつじが停まった部屋の美女を、一夜のパートナーにしたそうです。
だから、後宮の美女達は、こぞって自分の部屋の前に、ひつじが好きな、笹の葉を飾り、塩を盛って、自分の部屋の前で、ひつじが停まるのを待ちました。
この話が日本に伝わって、料亭などの【盛り塩】になったのです。
古代の後宮の美女たちが、ひつじが立ち止まってくれるようにと、願いをこめて塩を盛った故事にちなんで、たくさんの客が、店の前で立ち止まってくれるようにとの願いをこめた、盛り塩の習慣が出来たのです。
美女の話になって、つい力が入ってしまいました。
次回からは、三峡クルーズの話に戻ります。
続く。