スコセッシ作品はだいたい観てるけど、これはテーマ的にあんまり興味がなかったからか今まで視界に入ってこなかった。


江戸時代に正義感、使命を持ってマスターを救出しに行く宣教師の話。幕府もただ魔女狩りのようにキリスト教徒たちを虐殺しているわけではなく、政治利用や宗教的侵略阻止の為の見せしめとして踏み絵をしない者を処刑していく。


形だけとはいえ、キリシタンが踏み絵をして棄教することを転ぶ(降参、サレンダー)と呼んでいて、この宣教師も踏み絵を仲間の死と引き換えにアレコレ迫られるが、最後の最後サレンダーして転ぶことを決意した瞬間にだけ初めて神の声の導きが聞こえるのであった。


つまり、宗教に組み込まれてる政治的思惑とか、使命、正義感、意地、絵や十字架など形への偶像崇拝、はたまたキリスト教という枠組自体のフォームを放下してサレンダーして明け渡した境地のフォームレスの瞬間瞬間に、宇宙意志、something greatが流れ込んでくるということを見事に描写しているようで圧巻。


そしてマスターは早々に究極の選択を経てサレンダーして禅僧として内的平安を過ごしていたのであった。


そして明け渡して降参したからって、全てを犠牲にして失うということではないってこともサラリとラストシーンにあったようにも思えた。窪塚もイイ味だしてたな笑


昨今の宗教の政治的利用とか宗教戦争しかりあらゆる信仰に言えることなのかも。


本来、宗教は神との一体を、文化背景や言語は違えど指し示しているのだろう。権威になってしまうと形骸化して巧妙にエゴが入り込んでくる。形では神は捉えられない。言葉でも神は捉えることが出来ない。神、愛、仏は究極の抽象、対象として捉えた途端に二元になってしまう。


誰でもない、只、あるがままの今。


静かな、静寂。


沈黙。


読んで頂きありがとうございます。


慈愛を込めて。