草木や街並みとの出会い

草木や街並みとの出会い

庭、草木、街並、雑貨など自宅や仕事場、通勤途中で
出会った出来事や思いなど・・・

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那珂川市の成竹山の中腹にキャンプを楽しむための土地を20年前に買った。

数回利用しただけで 放置している。

 

2022/8の様子

 

2023/5/26 軽トラの荷台に乗せていた車中泊用の移動部屋を中央付近に下した。

        周辺を少し草刈

 

2023/6/22 10年前に作ったウッドデッキの腐った板を交換し廃材をキャンプ

        ファイアーで燃やしたいと思い運び込み、雨に濡れないように

        ブロックの上に置き、シートを掛けた。

 

2023/7/6 草木が敷地を狭くしているので 草刈り

       廃材置き場から4-5m程度空間ができた。

 

2026/7/21 草刈の続き、まだ数回は草刈りが続きそうだ;

 

1.左派が日章旗を勧めた。

 

私が小学生の頃、沖縄はアメリカの統治下にあった。

 

当時の革新系は 日本復帰運動を進めていた。

保守すなわち当時の沖縄自由民主党はアメリカ統治を肯定する現実路線であった。

 

沖縄独立を唱える勢力もあったが少数派で、左右両派から夢物語だと無視されていた。

極少数で台湾=中国復帰を唱える人も存在した。

 

父は教員だったので、当然 革新系で左翼に分類される思考であった。

日本復帰運動の一環として祝祭日には日章旗を玄関に掲げていた。

父は反米の意味で日章旗をあげていたと推測できる。

 

私は沖縄は日本の一地方であると思っていたので日章旗を正月に掲げるのは当然とし

日本復帰運動のデモ行進に何度も参加し、左翼だと自認していた。

 

当時の総理大臣であった佐藤栄作の努力で沖縄の日本復帰が決まった。

すると保守・革新ともに行動が反転した。

 

私は沖縄の日本復帰を喜び、日章旗を掲げるように父に求めたが拒否された。

革新系である父は以後正月に自宅の門に日章旗を掲げることを止めた。

 

米国統治を肯定していた沖縄自由民主党は、掌を返して自分たちは与党であり日本政府との

一体が沖縄の発展につながると唱え始めた。

 

革新系であった友人たちは 反米から反日に簡単に路線変更したが、日本復帰運動を

真剣に唱えた私は変化できなかった。

 

日章旗を揚げると革新系の友人たちは私を非難し、離れていった。

父とも政治の話はできなくなった。雑談や経済・社会情勢は普通にできるが政治色を出すと

対立になってしまった。

 

復帰が決まった時に政治姿勢の変化できなかった私は宙ぶらりんで中道派のつもりであった。

しかし 周りは私を右派として見ているのが面白い。

 

2.主席選挙

 

復帰前の沖縄は米軍人である高等弁務官が管理していた。

当然 米軍の戦時体制の維持が優先され、民事は後に回る。

軍政の下に琉球政府があり、琉球政府のトップの役職が主席であった。

 

歴代の琉球政府主席は高等弁務官の任命であった、しかし 沖縄の日本復帰が日米間で

具体的に協議され、1968年に初の主席選挙が行われることになった。

 

革新系統一候補の「屋良朝苗」と沖縄自由民主党候補の「西銘順二」の二人がが沖縄県民の

意思を確かめることを競った。

 

泡沫候補で沖縄独立党の「野底武彦」も立候補していたが当然落選である。

 

保革両陣営の選挙のキャッチフレーズが「戦争」・「芋と裸足」であった。

 

米国統治を肯定する保守が勝つと「戦争」にまきこまれる。

日本復帰を進める革新が勝つと「芋と裸足」の貧しい生活になる

 

主席選挙の私は当時、高校生であり、選挙権は無かったが、日本復帰運動にはまっていて、

革新系統一候補の屋良氏の当選を祈っていた。

そして屋良氏が当選したので日本復帰が確定されたことを素直に喜んだ。

 

革新が勝利したが「芋と裸足」の貧困生活にはならなかった。

正反対の日本政府からの資金投入で沖縄のインフラの整備は急速に進み、明らかに生活レベルが

上がった。

 

日本復帰記念行事で「沖縄海洋博」が開催され、

 

あのキャンペーンは何だったのか?

戦前の沖縄は「芋と裸足」の生活を送る人たちが多かったようだが・・・・

 

3.

「芋と裸足」のキャンペーンの根拠

 

私は左派であったと思っていたので、日本復帰運動に参加していた。

右派である沖縄自由民主党は米軍統治を肯定していたのを不思議に思っていた。

 

社会人になり、沖縄の経済界の要人の話を聞く機会があり、当時の政治体制の疑問点を

聞く機会に恵まれた。

彼は松山問屋街の問屋の創業者の一人で戦前の沖縄と米軍統治下の沖縄の経済に

ついて解説してくれた。

 

戦前の沖縄は鹿児島商人と大坂商人が経済の派遣を争い、沖縄の人達は経済の枠の外で

実力があっても独立や昇進はほとんど望めなかったようだ。

 

銀行も鹿児島系と大坂系で 沖縄の人には融資はなかったようだ。

庶民は裸足で芋を食べるのが普通の生活だったらしい。

 

戦争で廃墟になった沖縄の人達が食べていけるように援助したのは米国である。

なりよりも大きいのは戦前の大坂、鹿児島商人が持っていた不動産を全て非合法とし、接収

琉球銀行の設立を進め、沖縄の経済人の自立を助けたことにあると話してくれた。

 

私は左翼であったので米軍の圧政については聞いていたが、米軍統治下で戦災で荒廃した

沖縄を高度成長させた米軍の施政については無知であったことを自覚した。

 

沖縄の県民所得は現在でも最下位であるが、地上戦ですべて廃墟になった所から ある程度の

生活レベルまでの高度成長はは米軍が沖縄経済の自立を勧めた施政のお陰であるととして

恩を忘れてはいけないと言った。

 

「芋と裸足」は米軍によって自立をできた沖縄経済人の気持ちなのかも知れない。

この事を話す人はもう生存していないので、このブログで残しておきたかった。

 

4.復帰前の日本政府の沖縄援助

 

復帰前に日本政府の沖縄への経済援助があったことを知らない人も多いので 少し述べたい。

 

沖縄は亜熱帯に属する気候帯なので米が年に2回とれる二期作が可能である。

私が小学生の低学年の頃の遠足で郊外に出ると一面田圃であった。

それがすべてサトウキビ畑に替わっていった。景観の変化を驚いたが 今の人達は

サトウキビの景観が当たり前としているようだ。

 

これは日本政府が砂糖を高価で買い上げることで沖縄の農業振興を図ったためである。

農業界の代表が上京して砂糖の買上げ価格の交渉が沖縄の新聞に主要な経済記事と

して掲載されていた。

具体的な価格推移などは当時 小生は中学生であったので覚えていない。

現在でも 沖縄の主要農作物はサトウキビなので買上げ制度は継続していると思う。

 

統計資料をみると分かるが、復帰が決まると、交付金の項目が沖縄県の予算収支欄に

登場する。復帰の何年前からだったかは覚えていない。興味のある方は沖縄県の予算推移を

調べてほしい。

 

5.エネルギーの変遷

終戦後すぐに生まれたので、戦争で荒廃した沖縄の復興を直に感じることができたのは

歴史の好きな私にとって貴重な体験だったと感じている。

 

薪の時代

 小学校に入る前の煮炊きは薪であった。自宅に大きなカマドが数個あり、大鍋で芋を

 焚いているのを覚えている。近所に薪炭屋があり、そこで薪や炭を買っていた。

 薪炭屋の主人が丸太を斧で割って薪に仕上げていた。

 

 アイロンは炭で温める仕組みで火力が弱くなると母が団扇で扇いでいた。

 夜は石油ランプであった。

 

 戦争で全てが灰燼に帰した沖縄県だけが明治の頃の生活レベルからトレースする

結果になったのである。

 

石油の時代

 小学校になると煮炊きは石油コンロが使われ、灯は電気になった。

 4年生になったころTVが家に入った。 経済の高度成長が実感できた。

 

 米軍統治で基地建設のために土地収用の圧政ばかりが新聞に記されて

  いたが 高度成長を進めた米軍施政の事に触れた文は少ない。

 

沖縄の経済成長を最初に興したのがスクラップブームである。

戦争で米軍は何万トンという鉄を沖縄戦につぎこんだ。

自宅近くにも破壊された戦車がころがっていたと父から聞いている。

それらの戦争残骸をスクラップとして回収しても良いというお触れを

米軍が出したので 高度成長がはじまった日本は鉄の不足に悩んでいたと

嚙み合ってブームになり県外輸出のトップ産業になり、お金が沖縄に落ちた。

そして あちこちに転がっていた戦争残骸は消えた。

 

また 多くの基地建設は沖縄の土木会社や関連企業の発展になった。

米軍は浦添の牧港に発電船を停泊させて電気を供給、沖縄電力が自力で発電できる

までの長期間それが稼働してしていた。

 

私は「釜山でお昼を」というホームページを作り、日本統治時代の釜山や周辺の様子を

考察してているが、米軍の沖縄統治を実感した世代として、戦前の日本による朝鮮統治を

重ねて見る傾向がある。

沖縄の左派が米軍統治の欠点ばかりを述べ、米軍による経済発展を無視する傾向が

韓国の左派が日本統治の欠点ばかりを述べ、朝鮮の経済発展の基礎を築いた日本統治を

無視するのと同じ発想を感じるので苦笑いしながら傍観している。

 

ガスの時代

 プロパンガスと都市ガスがいつ替わったかは覚えていない。小学校高学年に

 なると家より、友人たちと集うことに興味が向いていたから。

 

7.辺野古基地建設に思う

 

 宜野湾市にある普天間基地を辺野古に移転して基地の跡地を市街地として発展させる

 計画が 進められていた。

 民主党が政権を取った時の鳩山首相が最低でも県外という アピールで普天間基地の

 辺野古移転に異議を唱え、これまでの合意を破棄した。

 それによって建設が遅れ、宜野湾市の発展を大きく阻害している。

 

 辺野古基地は現在は名護市になるが、建設当時は久志村であった。

 冷戦でソ連に対抗する前線基地としての沖縄を重視した米国は基地建設を進めた。

 土地収用問題で沖縄の各地でトラブルが出たが、久志村は異なる。

 基地経済で村の活性化を求めて、米国まで村長が出張して基地誘致を陳情した。

 陳情が成功し。辺野古基地建設がはじまった。

 

 辺野古基地は完成したが、久志村は期待したほど活性化しなかった。

 米軍は辺野古基地を毒ガスや弾薬の貯蔵基地としたからである。

 基地の前の国道は 駐停車は勿論、「減速禁止」の看板があり、減速すると

 スパイとして拘束されるようであった。

 また フェンスの内側に山羊があちこちにつながれていた。これは毒ガスが

 漏れた時の警戒センサーらしい。

 命が惜しいなら車の速度を上げろとアピールしていた。

 噂では核兵器もここに貯蔵されていたとヒソヒソ話を聞いたことがある。真実は

 不明である。

 

 沖縄の日本復帰が決まると毒ガスの撤去が始まり、長い車列が何日も続いた。

 万一の毒ガス事故を防ぐため要所に警察官が警備していたがご苦労様です。

 

 沖縄にある米軍基地のメインは嘉手納基地である。戦闘機、早期警戒機 給油機

 などがならぶ戦略の要所になっている。

 日本復帰前はグアムに台風がくると嘉手納基地に戦略爆撃機B52がたびたび飛来

 した。

 

 普天間基地は最大拠点である嘉手納基地を守る、海兵隊の基地である。

 普天間基地を返還して辺野古基地に移転は米軍は了解しているが、左翼は無条件の

 基地縮小を主張し、辺野古移設を拒否している。

 宗教みたいなものだから妥協点は無いようだ。

 米軍の立場からすると嘉手納基地の防御を無くすことは考えられないから、

 辺野古基地への移設または普天間基地の現状維持しか選択は無い。

 宜野湾市の発展が遅れるのを見ているだけなのがもどかしい。

 

 

JR九州で隣駅までの切符を買い反対方向に進み大回りして隣駅に到着する

小旅行を楽しむことができます。

これにはルールがあり、区域内で同じ駅を通過しない一筆書きの路線で回ることです。

区域内路線は下記の図です。

出発駅を選ぶことで様々なコースがありますが香椎駅を出て香椎神宮で降りる

コースが乗り換えと路線が多くなるので好んでいます。

 

30分コース:香椎-吉塚-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-篠栗線-香椎線

 

2時間コース:香椎-博多-原田-桂川-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-筑豊本線-篠栗線-香椎線

 

2.5時間コース:香椎-折尾-直方-新飯塚-桂川-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-筑豊本線-篠栗線-香椎線

 

3時間コース:香椎-西小倉-城野-田川後藤寺-新飯塚-桂川-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-日豊本線-日田彦山線-後藤寺線-筑豊本線-篠栗線-香椎線

 

4時間コース:香椎-折尾-直方-新飯塚-桂川-原田-博多-吉塚-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-筑豊本線-鹿児島本線-篠栗線-香椎線

 

5時間コース:香椎-西小倉-城野-田川後藤寺-新飯塚-桂川-原田-博多-吉塚-長者原-香椎神宮

        鹿児島本線-日豊本線-日田彦山線-後藤寺線-筑豊本線-鹿児島本線-篠栗線-香椎線

 

田川後藤寺-新飯塚と桂川-原田の間はディゼル1両なので良い雰囲気です。

 

JR九州はこの小旅行を乗客数の少ない土日にやってほしいと考えているようです。

桂川から原田に向かう路線で土日だけ、13:22に増便があることで推測できます。

桂川-原田は便数が少ない路線なのでここの発着を基礎に他の路線の連絡を

作ったほうが駅での待機時間が少なくなります。

 

 

 

 

 

 

荷台の上で組み立て見た

作り始めるといろいろアイデアがでて修正の連続になるw

養生ビニバンを側面に貼って幌をつけた。

これで最小限度の雨は防ぐことができ、車中泊もできそうだ。

 

側面と幌屋根だけでは、雨天走行中に雨が運転席の周りから荷台に

入ってくるのは確実なので前方に四柱を追加してB4透明プラバンの窓と

養生ビニバンで壁をつくった。

降った雨は荷台に流れこむので濡れたくなければ床を作る必要がある。

コンパネで床を追加した。

 

 

車中泊を楽しんでいる友人の写真を見せてもらった。

 

youtubeを見ていたら軽トラで車中泊できるように荷台に小さな家を

作っているのが多い。

面白そうなので色々調べるとキャンピングカー仕様の軽車両も多い。

 

居住性や外見に興味が向くと車体重量が重くなる。

小さな家風になると荷重限度の350kgぎりぎりになるようだ。

 

重量が増えると馬力の無い軽車両の走行性能は落ちる。

長い坂道で四苦八苦するようだw

 

また車検の時に荷台の家を下す必要があり、いろいろ工夫や

苦労がブログやYOUTUBEにアップされている。

 

自分の求める仕様がまとまった。

1:軽く(50kg以下)、普段の買い物やDIYにも便利なように

 

2:安価(1万円以下) 衝動的な車中泊工作なので失敗しても惜しくない金額

 

3:小さく(全高180m以下) 法律の範囲で最大2.5mまで作ることはできるが、

空気抵抗で走行性能が落ちることは確実。

 

4:一人で荷台に積下ろしができ、組立て解体が可能で、保管スペースを最小にする。

 

5:走行中の振動や風で破壊されない程度に頑丈

 

ホームセンターで30x45の木材を買って骨組みにしてアマゾンで780円の

幌(180cmx210cm)を2枚買った。

自宅横の通路がDIY工作場所

斜め材をいれたので頑丈にな多っと思う

横壁x2、前面、天井の合計4枚のパネルにして組立解体できるようにする。

幌で包むので防水の心配はいらないと思う。