2000年J1元年のフロンターレ
強化資金にものを言わせたのか、大量補強を行った
J1で実績のある選手を多数獲得した
また現監督である鬼木達は1998年鹿島から
レンタルで在席していたがこの年完全移籍で獲得した
人だけ見ればすごい補強だと思った
ただ、違和感があったのが
1999年5試合目から就き、J1昇格の立役者になった監督の
松本育夫氏を運営会社の社長に配置転換させ
別途新監督を招聘したこと
監督が代われば戦術が代わる。1999年J2を圧倒した戦力をベースに、
補強した戦力を上乗せするのがあたりまえだと思っていたわけだから
この方針でいいのか疑問だった
でも、J1で長く戦うには今までの考えをとっぱらうのもありかたとも思った
そして待ちに待った開幕
J1ということで会社でも観戦者がさらに増えた
サポーターもここぞとばかりに増えた
スタメンは新戦力ばかりで、当たり前だが成熟するには時間がいる。
開幕3連敗。その後もほとんど勝てず。セカンドステージでも変わらず
結果ダントツ最下位に終わった
シーズン途中の等々力で「やっぱりJ2!?」という横断幕が出る始末。
J2降格が現実味を帯びてからは集客が伸びなかったみたい
平均は7,439人。J1でこの客数は痛い
やはりフロンターレは川崎に馴染んでいない
開幕直後はJ1昇格の一時的な興味で増えたようだが
ヴェルディとの川崎ダービーは4試合すべて1万に満たなかった
ただ、ナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)だけは
準優勝を成し遂げた
でも本当にラッキーで勝ち進んだようなもの
準決勝は同じ降格組のKINGカズがいた京都だった
決勝の鹿島戦は0-2だが内容的には惨敗
獲得した賞金5,000万円は等々力でサポーターに還元する
という弱くてすみませんイベントさえ行った
また、1stステージ最終節ではセレッソ大阪の優勝を阻む
Vゴール勝ちをやってのけて相当恨まれた
初めてのJ1挑戦で画策していたことが
ほとんど裏目に出て燦々たる結果となった
悪循環によってフロント内でも軋轢があったと聞く
サポーターはほんとにがっかりした一年だったに違いない
ここまでフロンターレの象徴とも言われた
背番号14中西哲生が引退した
1999年まで主将と務めたが、この年は訳は知らないが
主将じゃなくなり試合にも出なくなっていた
これもサポーターが離れる一因だったに違いない
そして翌年2001年のJ2では大降格の後遺症か、7位で終わる
12チームで4回戦総当たり
J2在席3年で相当鍛えられたチームもあるから
簡単に勝てないことが分かった
平均客数は3,784人に落ち込む。これはJFL時代と同等の数字
さすがにこれで目が覚めたのか、ヴェルディが川崎から去ったこともあり
クラブは川崎市にフロンターレを根付かすため
市民の声をフィードバックする試みをするようになったらしい
私はこの時期、勤務地が横須賀になったため
試合のお誘いの連絡が途絶えることになり
見に行く機会が激減してしまった。
2002年は日韓ワールドカップが開催された
が、フロンターレには全く関係がない。
この年のJ2は4位で終わる
試合にどれくらいいったのかあまり記憶がない
このころ私個人、会社を辞める方向で奮闘していた
そして2003年春に役者を目指すために退職し川崎市を離れる
退職日は熱心に試合に誘ってくださった総務部の次長
(この時は別部署に異動していた)がわざわざ会いに来てくれました。
引っ越すのは単に家賃が高いところに住んでいたからと
東京に住んだほうが活動がしやすいと思ったから
フロンターレサポは続ける腹づもりだった
つづく
デハ!!